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『眠れる海の乙女』第16話

 架純が手術を決心してから俺と架純、そして優子と聡の四人で吉岡の元を訪れた。アメリカのフロリダ州の大学病院に吉岡が懇意にしている医師とテレビ電話を介して、手術の日程や手続きの打合せを重ねた。当然直ぐに手術を受ける事が出来ない為、保険の加入から役所への書類申請、そして吉岡と一緒に幾度かアメリカの大学病院を訪れて検査を重ねた。

 幾日が経った頃、架純は吉岡と家族三人でアメリカに赴いた。手術を受けた後に経過観察も含めると幾日入院をする事になる。架純達が渡米する当日、空港まで俺は架純を見送りに行った。深々と頭を下げる優子と聡を他所に、俺は架純を強く抱き締めて架純の耳元にひっそりと呟いた。

「……待っているからな」

 その言葉を聞いた架純は、力強く足を踏み締めながら改札を抜けて行った。見えない架純に俺は手を振り続け架純を見送った。

 架純が帰国までの間、俺はいつもと変わらず仕事に従事した。社長職に就いてからも変わらぬ営業を行った。近隣の同業者や協会、お世話になっている司法書士と土地家屋調査士へ挨拶回りを行った。

 正和が亡くなるまでは、正和の付き添いという形で顔を出していたものの、やはり立場が変わると会合の場に声がかかる機会が多くなった。俺より二回り以上歳が離れた近い立場との酒の席は慣れないものがあった。それでも正和が築き上げてきた人脈と会社の親である立場を失わない為に、場数をこなしながら意識を改めていった。

 架純の手術に関する不安や気遣わしい事など一切なかった。架純の手術が成功するという根拠のない自信に満ちていた俺にとって、それは愚問だった。俺や優子、そして聡が遣わしくなるより、当の本人である架純が一番不安なはずだと思っていたからだ。だが、出立間際の架純の顔に不安や焦りは微塵も感じなかった。それを見て俺は、安心して架純の帰国を待つ事にした。

 絶対に成功する。

 忙しない日々を過ごしながらも、俺はいつかの架純のように鯱のキーホルダーを握り締め眠りについていた。

 肌寒い季節が終わりを知らせるように、街路樹が華々しく咲き誇り出した頃。俺に吉報が届いた。架純の手術が成功した事。経過観察も問題なく退院の手続きを取っていると聡から連絡があった。丁度その頃、正和ホームにいた俺は小百合と結衣にその旨を知らせると、三人でその夜は祝杯を挙げた。

 もうすぐ架純が帰って来る。

 これほど満たされた心になったのは、いつ振りだろうか。今この瞬間、全世界の人類の中で最も喜びの感情が強いに違いない。そんな事を平気で思える程に俺は浮かれていた。

 帰国を二週間後に控える架純に、何かそれまでに架純に出来る事はないかと考えた。相変わらず俺が結衣からタピオカドリンクの買い出しを頼まれ、行き慣れた商店街通りを歩いている時だった。店先で雅美の姿を見止めると雅美に近づいた。架純の事をあれから伝えていない事に思い当たった。

 挨拶もそこそこにして、年上と知った雅美に敬意を払いながら架純の事を話した。すると雅美は目を大きくして、過大な表現で架純の手術の成功を自分の事のように喜んだ。俺に抱きつき、大声を挙げる雅美の様子は微笑ましくなった。

 そして架純が帰国する当日。空港まで俺は架純達を迎えに行った。到着ロビーで待つ俺の視線に大きく手を振る架純の姿を捉えた時、感極まって涙が零れた。架純の目に確かに俺を捉え、一直線に俺の元まで走ってくる架純。架純は俺の胸に飛び込んだ。その目には俺と同様、涙が溢れていた。

 架純の希望と優子と聡の勧めもあり、俺は架純と同棲を始めた。俺が住んでいるアパートの間取りでは手狭という事もあり、以前架純が住んでいた隣の部屋と俺の部屋を繋げるように壁を壊して、二つの部屋をリノベーションする事にした。費用は手術費用の為に不動産を売った金に若干の余裕があり、そこから懇意にしている業者にリフォームを頼んだ。工事が終わるまでは会社の二階に住まいを移した。

 仮住まいの最中の架純は暇を持て余した様子を見せると、結衣に声を掛け仕事を手伝った。店頭看板に掲載している物件情報の図面整理から、来客があるとお茶の配膳。電話が鳴ると積極的に電話を取った。その様子を見た結衣が俺に、架純を営業アシスタントとして雇ったらどうかと提案してきた。架純に相談すると、架純も満更ではない様子で提案を受け入れ、今では正和ホームの従業員として働き始めている。

 架純が手術を受ける決心をしてから、もうすぐ一年が経とうとしている。

 夏の日差しに照らされ透き通る空気に蝉の泣き声が波に乗って響き渡る中、俺と架純は市原市内にある霊園を訪れていた。ここには正和が眠っている。

 そして時間はゆっくりと着実に刻み、正和が亡くなってから初めて訪れるお盆に、こうして市原市内の霊園に眠る正和に架純と一緒に会いに来ていた。墓石に向かって挨拶を済ませると、神妙な面立ちで俺達は正和と顔を合わせた。

「……何を話したんだ?」隣に立つ架純に尋ねた。

「いろいろかな。隼人君が動いてくれて、正和さんのおかげでこうして目が良くなりましたって……隼人君は?」

「祖父ちゃんの跡を継いだ事。これからも仕事頑張るよって。あとは……」

「……あとは?」聞き返す架純に頭を振り「いや……そういえば俺達、祖父ちゃんと婆ちゃんと一緒だな」と話を逸らした。

「……一緒?」

「ほら? 俺達一緒に働いているだろう? 祖父ちゃんと婆ちゃんは、会社を立ち上げた時から一緒に働いていたからさ」

「そっか。そうだね、一緒だね」

 お墓の周りの雑草を刈り取り、墓石を掃除して供花を添えた。不思議と正和がいつも見守ってくれている感覚があった。寂しさを感じる事が少ないものの、正和の尊さをより強く感じるようになった。

 霊園を離れ駐車場に向かう最中、架純が話しだした。

「正和さんね……隼人君の将来を心配していたんだ。一度、正和さんと話した事があってね。その時からもしかして、こうなる事予期していたのかなって。隼人君に会社を継いでもらいたいって、その時に言ってたんだ。隼人君の事、宜しく頼むって。でも、ちゃんと跡を継いで成長した姿を見せる事が出来て、きっと正和さん喜んでくれているよ」

 正和を失ってから、どれだけ強くなれただろう。憧れていた正和という男にどれだけ近づけたのだろう。追いかけていた背中を見失った今、俺の側にこうして架純がいてくれる事が心強い。正和も愛する小百合が側にいて、こうして同じ思いになっていたのだろうか。

 架純と再会するまで考えた事もなかった。

 孤独を楽しんていた訳でもない。ましてや自分が孤独だと思った事もない。自分のあるべき将来の姿を想像した事もなければ、誰かの為に生きるなんて思想もなかった。

 それほど架純と再会した後の日々は、劇的に俺の価値観を変えた。変わった事で戸惑いを覚えた事もあったが、変わった事に対して受け入れている自分に出会えた。

 高校生時分に架純と一緒に過ごした時はそんな事を考える余裕や時間もなく、ただ毎日を楽しんでいるだけだった。成人を迎えた事で大人という枠に収まり、息苦しさと肩身の狭さに達観して生きていた。 

 愛する人が側で微笑んでくれる事。自分の帰りを待ってくれている事。同じ屋根の下で寝食を共にする事。下らない話をして笑って、時には喧嘩をして涙を流し、それでも切れない絆があって互いの人生の灯が消えるまで愛し合う事を誓い合う。

 そんな平凡で有り触れた生活を肯定も否定もするつもりがなかったが、自分がそんな大多数が選択してきた枠の中に収まる事を恐れていた。自分には他の生き方があって、運命がきっと導いてくれる。自分はまだ若いから、そんな刺激溢れる生活が待っているに違いない。そんな考えが頭の隅でいつも燻っていた。

 でも今は、そんな平凡で有り触れた生活に憧れを持っている。

 多くの先人達が選択してきたように、自身もその選択をしたいと思っている。他に異なった生き方もあるのかも知れない。違う生き方を選べば、出合った事のない人間や出来事と巡り合う事がこの先あるのかも知れない。魅力に溢れた出来事に出くわして好奇心が擽られるのかも知れない。それでも目の前にこうして現れている最愛の人を見過ごして、この先を生きていける程、器用でもなければ自分の心に嘘をつきたくない。

 人生の早くに最愛の人に出合えた事……この好機を逃したくなかった。

 だから――。

「ちょっと寄り道していかないか?」駐車場に着いてサーフに乗り込むと、助手席に座る架純に尋ねた。

「……どこに行くの?」首を傾げる架純にチェンジレバーをドライブに入れ、サイドブレーキを外しながら「海に行こう」とハンドルを切った。

 道中の架純は、いつか鴨川に行った時に話した鯱の夢について語り出した。もしかしたら架純は鴨川に行った時、車中から見える景色を見て思い出したのかも知れない。俺が架純に動画を送ったあの日に夢を見た事。俺と再会して引っ越しをした翌日にも見た事。遡れば俺に会う数日前に立て続けに同じ夢を見た事。

 俺は架純と再会をする日の朝に見てから、幾許か日を空けてから一度だけ見た事があった。その夢で隣に座る人物の正体がわかった。それは俺が架純に動画を送ったあの日の事。架純が手術を決めた日。隣に座っていた人物は架純だった。

 俺と架純は同じ日に同じ夢を見ていた。夢の中で互いに隣に座る人物が解り合えた。

「結局、何の夢だったんだろうな」運転をしながら呟いた。あの日に夢を見て以来、一度も見る事がなくなった。架純もどうやら同じようだった。

「……やっぱり」架純は何か合点がいったようだった。先程からスマートフォンで何か調べている様子だった。俺が話を催促すると、架純は画面を見ながらゆっくりと読み上げた。

「大切な人に幸運が訪れる……これってお互いに同じ夢を見たって事は、お互いに良い事があったって事でしょ?」

「……そういう事になるな」

「私は隼人君と再会する時とか、あと手術を決めた時……隼人君もそうでしょ?」

「つまり……互いに起きる事の前兆的な意味?」

 そんな非科学的な出来事に信憑性が欠けるが、実際に夢が訪れたタイミングがそうだったように信じてみたい気持ちにはなった。架純はどうやら納得した様子を見せると、話題は変わり雅美の話になった。雅美が兼ねてから付き合っていた男性と先日結婚した事を話した。架純がアメリカから帰国した後に、二人で会った時に聞いたらしい。俺が雅美に会いに行った際に、雅美からその話を聞いていた。だが架純の前でその話を伏せていた。あくまでも知らない体で架純の話に相槌を入れて遣り過ごした。今このタイミングで聞かされた俺の心中は穏やかではなかった。

 正和の墓石に手を合わせた時に正和に報告をしたが、俺には兼ねてから二つの覚悟を決めていた。一つは既に成就されたもので、それは正和から相続された不動産を手放し、架純の手術費用に充てる事。そしてもう一つは、架純にプロポーズをする事だった。

 それは、あの日に決めた事だった。架純がいなくなり、これから辿り着く鴨川に夜中に一人で架純に思い馳せていた時。あの時は架純と正式に別れの言葉を交わした訳でもなかった。一方的な気持ちを持っていただけに過ぎないのかも知れない。だがその気持ちは、理屈じゃなかった。架純が書いた日記を読み、あの時は例え架純の視力が戻らなくても架純の側で支え続けると決心した。だから架純に動画を送った時、伝えたい事があるだなんで先走るような事を架純に伝えた。結果として架純の目が回復した今もその気持ちは変わらない。もうこれ以上、自分の気持ちを抑えられそうになかった。

「うわぁ、やっぱりあの時と見え方が全然違うな」

 車を停め、砂浜に下りると架純は俺より先に海際まで歩いて行った。架純と一緒に鴨川の水族館に訪れた以来、二人で訪れたのは久しぶりだった。周囲には遠くで家族連れが疎らにいる程度。幼い子供の嬉々とした声が微かに聞こえてくる。俺はズボンのポケットに忍ばせた物を確認すると、ゆっくりとした足取りで架純の隣に近づいて行った。

 砂浜に足を取られながらも、一歩ずつ踏み締める度に胸の高鳴りが強くなっていく。靡く髪を押さえながら目の前に広がる壮大な海に見とれている架純の後ろ姿が絵になっていた。俺は海を背景にした架純の立ち姿に見とれて足を止めた。架純がとても海に似合っていた。

「……どうしたの?」架純が突然振り向いて声をかけてきた。

「……いや、何でもない」頭を振り架純の隣に立つと、暫く二人で海を眺めた。言葉を交わさずとも居心地の良い時間が流れる。架純も同じ気持ちなのだと架純の顔を見なくてもわかる。それだけの時間を互いに過ごしてきた。これからもこの時間を大切にしていきたい。

 潮の香りが風に乗り、小波と鴎の泣き声が一緒に風に乗ってきた。耳心地の良さに高鳴る気持ちが一瞬落ち着きを見せると、俺はポケットに忍ばせていた物を取出し、架純に向き直った。

「……架純」俺の声に架純が反応し振り向く。視線を落として俺が手に忍ばせていた物に気付くと架純の目が大きくなった。その瞬間、俺は架純の目の前で跪き、握っているアクアマリンのネックレスを差し出した。

「眠れる海の乙女よ、俺と結婚してくれないか?」

 自分でも小っ恥ずかしくて仕方がない。先日雅美の元を訪れた時に雅美から聞いた、架純がアクアマリンのネックレスを欲しがっていた事。架純と雅美が話した男性からのプロポーズに跪いてされる事に憧れを持っている事。眠れる海の乙女という言葉は雅美が考えた言葉だった。照れはあるものの、一生に一度のプロポーズは失敗したくなかった。現に、雅美からの証言で信憑性もあった。架純の喜ぶ顔を見たかったからやった事なのだが……。

「……うふふふふっ……あっはっは」

 聞こえてきたのは架純の笑い声だった。顔を上げると架純は腹を抱えて笑っている。呆気に取られている俺に架純が「ねぇ? もしかしてそれって雅美さんから?」と目尻に溜まった涙を拭いながら尋ねてきた。

「……えっ? どうして?」

「雅美さんからね、この前会った時に聞いちゃったの。もしかしたら隼人君からこんな事をされるかも知れないって。冗談だと思って聞いていたから……まさか本当にするなんて」

 雅美にやられた。一世一代の男としての大勝負に、こんな赤っ恥をかくなんて。立ち上がり不貞腐れていると「でも、そのネックレスは本当に欲しかったんだ……ねぇ、付けてよ?」と俺が持つネックレスを指差して架純がお願いしてきた。渋々、架純の背後に周り首元にネックレスを付けた。 

「……どう、似合っている?」

 架純の正面に立ち、その姿を見せる架純に「あぁ、似合っているよ」と俺が答えると架純は嬉しそうに笑顔を見せた。

「でもさぁ、こういう時って普通、指輪とかじゃない?」架純は物足りなさを見せた。

「指輪はほら、また別に用意するから。先に気持ちを伝えようと思って……」

 頭を掻きながら答える俺を見て、架純は安堵の顔を見せた。

「……私、普通のプロポーズが良かったな」架純は口を尖らし、海の方へ向き直った。

 その言葉を聞いた俺は架純に歩み寄る。それに気付いた架純は俺に向き直った。

「その前に……先ずは乙女を眠りから覚ましてよ?」

 俺が次の言葉を放つ前に、架純は俺にせがんできた。だが俺はその意味を図りかねた。それに見兼ねた架純は瞳を閉じて顎を上げて見せる。

 架純の目を正面に捉え、架純の両肩にそっと手を添えて顔を近づけ架純の唇に触れた。触れた後、ゆっくりと顔を離すと互いの鼻先が触れんばかりの距離になった時「……結婚しよう」と架純に囁いた。

「……うん」

 頷く架純を見た俺は、再び架純の唇に触れた。

 俺達の愛が永久に約束された瞬間だった。

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