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『眠れる海の乙女』第10話

 正和の葬式が終わった頃、俺はひどい喪失感に侵されていた。

 全ての事に於いて無気力になり、枯れる程の涙を流して慟哭した。会社の二階にある住居スペースにある、正和が愛用していたソファーに体を埋めながら正和との思い出に想いを馳せていた。きっと小百合も、ひどく落ち込んでいるに違いない。そう思っていたが小百合は違った。

 翌日から小百合は忙しなく動いていた。役所や各保険の手続きを済ませ、人一人が亡くなると、各方面の書類の手続きは尋常ではない様子だった。最愛の夫を亡くし、悲壮感に陥っていると思っていたが、そんな様子を見せる事はなかった。少なくとも俺の二倍以上歳が離れている祖母を間近に見て居たたまれなくなった俺は、自身の体を無理やり鼓舞した。

 小百合に何か手伝える事はないかと尋ねるも、小百合は俺の気遣いを受け取ったが、やんわりと断った。俺が想像しているよりも実際にはそれほど大変ではない事を小百合は話した。

 それでも落ち着かなかった俺は小百合に懇願すると、ようやく折れて葬儀参列者への挨拶周りを頼んだ。正和が生前付き合いのあった、不動産会社や関連業者に菓子折りを持参して訪問した。その中には俺が付き合いのなかった会社もあり、挨拶をした際に正和の孫だと話すと、何か困った事があれば助けると言ってくれた。

 正和が亡くなって二週間が過ぎ、若干の落ち着きを見せた。

 店でデスクワークをしていた時、小百合から二階に来るように内線が入った。結衣に何だろうと尋ねるも、首を傾げて何も言わなかった。先週から結衣は明らかに機嫌が悪かった。俺が尋ねても、はっきりした答えは返って来ないし、気を遣ってまたタピオカドリンクを買って来ようかと声を掛けても、結衣の機嫌は回復しなかった。

 エレベーターに乗り二階に向かう。玄関扉を開けてリビングに入るとそこには小百合とスーツ姿の女性がいた。

 俺が戸惑って立ち尽くしていると小百合が「さぁ、こっち座って」と案内したテーブルに腰を下ろす。女性の向かいに座る形で腰を下ろし、俺の隣に小百合が座った。

「初めまして。御社の顧問弁護士をさせてもらっています、天海と申します」

 差し出された名刺を受け取ると、千葉市中央区に事務所を構える大手の弁護士事務所だった。慇懃な印象を覚える中年の天海は、小百合に視線を向けながら口火を切るタイミングを窺っている様子だった。

「どうしたの、突然? えっ、何で弁護士の先生がここに?」

 戸惑いを覚えながら隣に座る小百合に尋ねた。すると小百合は天海に一度視線を移した後、柔らかな笑みを浮かべて話出した。

「今日はね、隼人に大切な話があって、こうして天海先生にお越し頂いたの。天海先生とは、もうかれこれ二十年くらいの付き合いかしら?」

「そうですね……私がまだ新人の時からお世話になっております」天海が小百合に頭を下げた。

「それでね、隼人。お父さん……あっ、正和さんの方が良いかな? 正和さんが亡くなって、いろいろ大変だったでしょ? そうだ、隼人もいろいろ手伝ってくれてありがとうね」

「……うん」正和との記憶はまだ新しかった。

「それでね……その、えっと……」口ごもる小百合を見兼ねて「小百合さん? 宜しければ、私からお話しさせて頂いても?」と天海が割って入った。すると渋々頷く小百合を見て、天海が話出した。

「それでは、隼人さん。こちらを御覧頂けますか?」天海が鞄から取り出して見せた書類には遺言公正証書と書かれていた。

「……これって?」

「はい、正和さんのものです」確かに正和の名前が書かれていた。

「正和さんは、終活をなさっていました。御自身の身の回りの整理をして、御自身が亡くなる際に小百合さんやご家族に御迷惑をかけないように」

 目元を伏せ故人を偲ぶように話す様子を見て天海に好感を覚えた。俺が生まれた頃から正和と付き合いがあっただけに、思う所があるのだろう。

「正和さんは、相当な資産をお持ちでした。御自身の会社の株から不動産、車、趣味の骨董品など多岐に渡ります。正和さんのお考えを尊重して遺言書を作成された訳です」

「正和さんは病気が発覚してから天海先生に相談して、少しずつ始めていたのよ?」

 小百合は正和から相談を受けて、二年前から話合っていたそうだ。丁度その頃に浩一の話によれば俺が正和ホームに入社したという事だろう。

「……それで、その話が俺にどう関係が?」話の糸口が見えてきそうで見えてこなかった。 

「それは、隼人さんが相続人だからです」

「……はい?」きっと俺の顔は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているだろう。

「こちらを御覧下さい……ここに書いてあるように、正和さんのご意思により正和さんが所有されている不動産の一部を相続される事になります」

 記載されている不動産は松戸市にある土地や浦安市の月極め駐車場、船橋駅前にあるマンションの三部屋など、少なくとも十件以上が記載されていた。その中には俺が住んでいるアパートもあった。

「会社名義の不動産と個人で所有されていた残りの不動産は、全て小百合さんに相続される予定です。続けて会社の株に関するお話を―――」

「ちょっ、ちょっと待って下さい」話の内容が追い付かず頭が混乱していた。

「……何でしょう?」天海は顔色変えずに俺に向き直る。先程までに天海に覚えた好感は一切消え去っていた。

「こういう相続って普通、息子が相続するものじゃないんですか? 俺の前に先ず、親父じゃないんですか? どうして孫の俺に?」こういった事に関しては多少の知識があった。俺は去年落ちたものの、不動産業務に必須である宅地建物取引士の資格取得の為に勉強していた。

「浩一さんは、相続放棄なされました」

「……はい?」二回目の豆鉄砲を食らった気分だ。

「浩一は初めから受け取るつもりがなかったのよ。自分の会社もあるし、彼なりに思う所があるような言い方をしていたわ」小百合が補足説明をした。

「正和さんが亡くなる前、浩一さんと三人でお会いしました。その時に浩一さんのご意思は、確認しております。こちらが相続放棄申述書です。浩一さんのご署名も頂いております」

 差し出された書面には、確かに浩一の字で書かれているものだった。

「どうして親父は放棄を?」浩一の真意を図りかねた。確かに浩一は金銭的に困っている様子もない。筋道を考えれば一人息子の浩一が相続するのが筋だろう。天海は噛み締めるように口を閉じた後「それは、こちらの会社の事があるからではないでしょうか?」と口にした。

「正和さんはね、隼人にこの会社を継いで欲しかったのよ?」小百合が俺の肩に手を乗せて、諭すように話した。正和の葬式の際に浩一から話を聞いていた。俺がこの会社に来たのは、正和の後継者を育てる為だと。

「だからって俺はまだ経験だって浅いし、そんな器じゃ……」二十一歳の俺にとってそれはとても大きな重圧だった。

「ですが正和さんは、本気で隼人さんを後継者に指名されました」天海が続けて開いて見せた公正証書の中身がそれを物語っていた。

「先程のお話の続きになりますが、正和ホーム株式会社に関するお話に移ります。会社の株式は三分の二が正和さん、三分の一を小百合さんが所有されております。事業承継の話にも繋がりますが、正和さんが所有されている株式を全て、隼人さんに相続させる事が正和さんのご意思となります」

「……本気かよ?」天海の言葉一つ一つが、まるで他人事のように聞こえてくる。

「何も隼人一人に、押し付けるような事はしないわ。私や結衣ちゃんだっている。三人で協力していこうって事よ?」項垂れている俺を心配して小百合が声をかけてきた。

「ですが、会社の株式を過半数以上保有される事になりますので、会社支配権は隼人さんになりますね」天海が補足説明をする。事務的に話す天海が気に食わなかった。

「婆ちゃんはそう言うかも知れないけど、結衣さんが納得しないでしょ? 俺なんかみたいな若造が社長だなんて……」

 結衣だって困惑するはずだ。幾つもの年下の男が、ある日突然上司になるなんて結衣が嫌いそうな事だった。俺の心配を他所に、天海が話を引き継いだ。

「実はこの遺言公正証書を作成するにあたって、証人が二人必要となりました。一人は私、そしてもう一人は、結衣さんです」

「……結衣さんが?」寝耳に水だ。

「この遺言公正証書の証人は、家族や親族など遺言者と利害関係がある関係者はなれません。よって一人は私が、もう一人は会社の従業員となりますが、正和さんが信頼されている利害関係のない身近な人物である結衣さんとなりました。ですから結衣さんは、その事を了承した上で、証人となっている訳です。とは言っても小百合さんは、この遺言状の中身は承知している様子でしたが……」天海は立場上、複雑そうな表情を浮かべた。

「だからって……」ここ数日の結衣の言動が気になっていた。どこか余所余所しいその対応に、この事が関係しているのではないのか。結衣は反対したものの、無理やり正和に頼まれて断れきれずに応じた。そんな可能性が脳裏に過っていた。

「……これって、放棄出来るんですよね?」

 何も考えずに口から出た言葉だった。正常な思考が停止していたからだ。俺がその一言を口にした途端、場が張りつめたのがわかった。向かいに座る天海の目が大きくなり、隣に座る小百合からは視線が突き刺さっている。俺にはあまりも荷が重すぎた。正和がこうして俺を想っていてくれた事は素直に嬉しい。可愛がってもらっていた事に感謝もしている。だがそれとこれは、別だ。精神的にも男としても未熟だと自分が一番理解している。例え小百合と結衣が手伝ってくれたとしても、その重圧と責務に耐えられるかどうか不安になってきた。

「遺贈を放棄する事は可能です。ですが……」天海が言い切らない内に、小百合に視線を合わせた。小百合は天海からバトンを引き継ぐようにゆっくりと話し出した。

「……おとうさんが言った通りね」

「……えっ?」小百合の方に振り返る。

「隼人はきっと拒否するだろうって……」寂しそうに見つめてくる小百合を見て申し訳ない気持ちになった。

「だっ、だからって突然言われても―――」

「それじゃあ隼人は、おとうさんが生きている時にこの話をしたら引き受けたの?」

「そっ、それは……」何も言い返せなかった。

「おとうさんと三人でお昼食べた時があったでしょ、ここで? 隼人が来る前に話していたんだけどね。その時、今ニュースになっている再生治療の話をしていたの。実際にお医者さんからも勧められていてね。でも、お父さんは頑なに拒否したわ。何て言ったと思う?」小百合に尋ねられたが頭を振った。

「自分が長生きした所で、隼人の為にならないって。だからと言って、隼人に話した所で隼人は、俺の跡継ぎにはならないだろうってね。だからね、私思うの。これは、おとうさんの覚悟なんだろうなって」

「……覚悟?」

「ほら? おとうさん、口酸っぱく言っていたでしょ? 筋がどうだ、誠意や敬意を払われたら、応えなくちゃいけないって?」

「あぁ……あれね」正和の顔を思い出して、小百合と二人して笑った。

「あの人は、不器用だったからね。堅物というか、自分では何度も言うくせに、こうした大事な事は直接言わないから、恥ずかしがっちゃって。だから……だから、こんな形で……人の気も、知らないで……」小百合は話ながら正和の事を思い出したのだろう。次第に涙を堪え切れずに流し始めた。正和が亡くなってから気丈に振る舞っている事が不思議だった。何十年と連れ添った夫を亡くし、悲しむ姿を見せなかった小百合。悲しくないはずがない。

「……隼人」鼻を啜り小百合が声を掛けてきた。「おとうさんの……正和さんの想いを受け取ってあげて?」

「……婆ちゃん」正和がここまでして俺に託した想い。正和が言っていたように俺も決心しなければならない時が来ているのだろうか。

「少し時間くれないかな? その、前向きに……考えるから」

 張りつめていた空気が俺の一言で場が和んだように感じた。小百合の安心した顔を見ると相当心配していたのだとわかった。

「何か気になる事でもあるんですか?」天海が俺の顔を覗きこむように尋ねてきたが俺は「いえ、大した事では……」と頭を振った。

「ただ俺も、覚悟を決めなきゃいけないなって」そう返すと「何か不明点あったら、御連絡下さい」と天海は笑顔を見せた。初めて見た天海の顔に、この人にもそんな表情があるのだと思い、少し安心した隼人だった。

「あっ、そういえば」不意に思い出した事があって声を上げる。「何か?」書類を鞄に仕舞いかけていた天海に「もう一度、さっきの遺言状見せてもらえますか?」と尋ね、渋々天海が再び取り出した。天海から受け取り先程のページを捲る。

「……やっぱりそうだ」

「どうしたの、隼人?」小百合が尋ねてきた。

「今住んでいるアパートも俺の所有になるんだったら、家賃も払わなくていいんだよなって」

「うっふっふ、そうなるわね」口許を押さえ笑いを堪える小百合。だが天海から「ですが、相当額の税金は納めて頂く可能性はありますので、ご容赦を」と身も蓋もない言葉が飛んできて、やはり天海とは相容れないと思った。

「ところで、婆ちゃん。知っていたら教えて欲しいんだけど……」

「なに、隼人?」笑みを零しながら聞き返す小百合。

「あそこのアパートの二階の部屋、いくつか空いていたでしょ? ほら、架純が住むまでは。あれって、祖父ちゃんから何か聞いている? 祖父ちゃんに何回か聞いたけど、全然教えてくれなくて……」

 俺が小百合に尋ねた瞬間、小百合の顔色が変わった事を見逃さなかった。

「……あぁ、あそこ? あれはたしか架純ちゃんみたいに、条件が厳しい人とか向けに幾つか空けているんじゃないの? ほら、この辺りで駅まで徒歩圏内で、あの条件はさすがにないからね」

 小百合の話す言葉には特に怪しい点はなかったように聞こえた。だが小百合が話した以外に何か他に理由があるように思えた。それも俺には言えない何かが。自分が相続する事になるまでにはっきりすればいい。そう思ったのでそれ以上小百合には尋ねなかった。

 話し合いを終えると、天海と小百合はまだ話がある様子だった。立ち上がり天海に頭を下げる。小百合には「仕事に戻るね」と言い残し、その場を離れた。

 様々な事が自分の身の周りに起き始めている。自分の人生が変化を求め始めている事を、先程の話で実感した。正和の逝去に幾度か会社を離れる事も考えた。それほど正和に対しての仕事に対する姿勢や考え、人生観はとても刺激的で見習うべき所が多かった。それだけに空虚な心が満たされず、彷徨ったままでいた。そんな時に先程の話を聞いた。

 覚悟を決めなければならない。

 その場で返事をしても良かった。答えは決まっていた。戸惑いや不安は残るものの、進まなければいけない事由が俺にはあった。正和の誠意に応える事。男として筋を通す事。正和を尊重するのであれば、それだけの事だった。

 一階に戻ると結衣がデスクワークに勤しんでいた。難しそうな表情を浮かべながら頬杖をついて、パソコンと睨めっこをしている。

「……戻りました」

 不機嫌そうにしていた結衣の背後を静かに通り過ぎる。先程の天海の話を聞いて、今後どう結衣と接すれば良いか、距離感が掴めなかった。今の結衣には経験上刺激を与えない方が得策だと判断し、ゆっくりと自身のデスクワークに歩いて行った。

「あぁ――。もう、駄目。耐えられない!」

 突然の結衣の叫び声に体を仰け反った。完全に油断していた為、心臓が激しく鼓動する。

「……どっ、どうしたんですか?」こんな事すら今の結衣に尋ねて良いものかどうか、解らなかった。だが尋ねる事をしない事で、別の口撃がやってくる事は明白だった。

 結衣はデスクの引き出しから何かを取出した。それを手に持って俺のデスクまで大股で足早に歩み寄って来る。言葉にならない恐怖感を覚えたが、あっという間に結衣が俺の所まで辿り着いた。

「はい、これ」

 差し出されたのは、水色の表紙のノートだった。表紙にはDIARYと書かれている。

「……これって?」結衣の意図を汲み取る事が出来なかった。結衣の顔は苦悶そうな表情を浮かべている。

「……それ、架純ちゃんの」

「……えっ? 何で、結衣さんが?」

「それは――」

 その時、店の入り口が開く機械音がした。姿を見せたのは、長身痩躯のスーツを着た男性。

 その男の顔を見た時、記憶の奥底で燻る映像があった。断片的で鮮明でない映像を掘り起こすには、きっかけが欲しかった。

 結衣は来店したその男性に歩み寄って行った。

「鍵、お返しします。荷物は全て業者が持っていきました。確認しなくていいんですか?」

 結衣が男性から受け取った鍵のタグに見覚えがあった。

 もしかして……。

「一先ずは、大丈夫です。後日、立会いさせてもらうかも知れませんが……」

「あの……」二人が立つ側まで近づく。するとその男性が、俺の顔を見るなり表情を一変させた。その瞬間、俺の奥底に眠っていた記憶が一気に湧いて来た。

「もしかして……あの時の?」

 以前、俺が住むアパートを見上げていた男。端正な顔立ちが一変して崩れた時の慌てた様子に見覚えがあった。

「やっぱり。きみが隼人君だったんだね」

 今度は落ち着いた静かな声で、その男が俺の名前を口にした。どういう事だ? どうして架純の部屋の鍵を……。

「……どうして、俺の名を? それに、失礼ですが……」恐る恐る尋ねると「失礼。架純の兄の聡です」と聡は笑みを浮かべて自身を紹介した。

 架純の兄貴? 確かに以前、架純から兄の存在は聞いた事があった。だけど、どうして兄貴が架純の部屋の鍵を? それに、さっき荷物を業者が持って行ったって。

「……結衣さん、どういう事? 何か俺に隠していますよね?」

 先程から俯いて黙り込んでいる結衣に尋ねた。数秒の沈黙があったが、結衣は言葉を紡ぐ事はなかった。それに見兼ねた聡が代わりに言葉を紡ぐ。

「その日記……架純のやつだよね?」

 俺が手に持っている日記帳を指差して聡が言った。聡はこの日記を知っているのか? 

「その日記を読めば、全てわかると思うよ?」

 この日記が? 俺が日記帳を捲ろうとした時「……隼人君?」と聡が呼んだ。その言葉に反応し聡の顔を見上げる。

すると聡は唇を噛み、言いにくそうに顔を歪め言葉を放った。

「架純はもう、隼人君の前には現れない」 

 無情に聞こえる聡の言葉が、俺の耳に木霊した。

 

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