見出し画像

『二人のソクラテス』第11話

 高校卒業と同時に私は市外を離れ、隣接する成田市内の小さな不動産会社の事務員として就職した。


 祖父母の家を離れ、初めての一人暮らし。一人暮らしにあたり、賃貸の手続きから引越しの手配まで全て私一人で行った。


 足りなかったお金は、まさかの祖父母が負担してくれた。私に対する情なのか、はたまた手切金なのかわからないけれど、ありがたく頂戴した。

 

 就職先として不動産会社の事務員を選んだのは、星哉くんの影響だった。星哉くんが日頃から馴染んできた業界。


 触れてみたかったし、知りたかった。一歩でも良いから、星哉くんが見た景色、触れていた空気を吸いたかったから、そこには固執していた。


 営業は私には向かない。ろくにコミュニケーションをとってこなかった私が、人見知りの私が出来る訳がない。


 だから事務職を選んだ。理由なんてそんなもの。それ以外、大した理由はない。強いて言うならば、自立したかった。祖父母の呪縛から抜け出したかったから。


 従業員は僅か二名の小さな不動産会社。中年男性の社長と小林さんという私より数歳年上であろう女性の事務員だけ。


 店舗と呼べない無機質な空間。ただ店を構えているだけの空間だった。店舗というより事務所に近くて、客をおもてなしをするような会社ではないのだろう。


 面接時に聞いたのは不動産会社でも様々な形態があるらしい。一般的に個人客を相手に営業する不動産会社とは違い、会社で物件を買ってリフォームして再販する、謂わば物件を作る業務が中心のようだ。


 だから店の内装は無機質で殺風景らしい。店舗の立地としては京成本線の成田駅から徒歩二十分の距離のビルの一室。


 入社して早々に社長から小林さんから業務を学ぶように言われたので小林さんに従った。


「あなた、どうしてこんな会社に入社したの?」


 私から見ても社会人にそぐわない身なりだった。言ってしまえばギャルだった。化粧は濃いし、香水の香りは甘ったるい。髪は巻き巻きの茶髪。ネイルは派手だし、どうしてこんな派手な人が事務員をやっているのだろう。そして社長はどうしてこんな人を雇ったのだろうとつくづく思った。


「私ね、来月で会社を辞めるの」


 小林さんはデスクの整理をしながら話してきた。聞けば寿退社らしい。同業他社の営業と婚約そたと嬉しそうに話した。そこで小林さんが辞めるから私を雇ったのだろうと合点が入った。


「ここの会社は給料は安いけれど、仕事は楽よ。電話は鳴らないし、客が来ることはほとんどないわ。せいぜい、郵便物が届くくらい。あとはたまに業者が来るくらいかしら」


 確かに他の求人情報より固定給は数万安かった。とあるネット掲示板や口コミサイトでも評判は悪い。


 電話は繋がらない。対応は悪い。この会社が売主の中古物件を買ったけれど、保証は無いし、設備は壊れるなど悪態だらけ。


 だからこの会社の入社面接を後回しにしていた。何故そんな会社に入社したのかと言えば、他の希望していた会社の入社試験がことごとく落ちたから。


 数十社以上は書類審査で落とされ、面接まで漕ぎ着けても、人見知りで緊張強いの私はただのコミュ障と奇異な視線に晒されて終わった。


 絶望に落とされた私は縋る想いでこの会社に問い合わせした所、簡単な面接を社長と行って、その場で採用になり今に至る。


 今思えば、社長との面接はやる気がなく、どうでも良いような感じの態度に思えてきた。まるで誰でも良い。人であれば良し。

 

 そんな印象だった。

 

 小林さんが言ったように確かに業務は楽だった。楽と言うより暇だった。九時に会社に来て郵便物の確認。簡単な清掃やメールのチェック。


 ごく稀にホームページから物件の問い合わせがあれば社長に連絡。社長は週に一回、会社に来るかどうかのレベル。


 社長と連絡がつかないと嘆くリフォーム会社からの電話や他業者から物件の在庫確認の問い合わせ。物件の案内をしたいと名刺のファックスが来れば物件の鍵の対応。


 強いて覚えるのが大変だったのは自社物件の把握だった。物件の住所やリフォームの内容など他業者から問い合わせが来る度に最初は混乱した。それは小林さんが細かくエクセルで纏めてくれていたから感謝だった。


 数としては十件ないけれど、初めての業務なだっただけに覚えるのが大変だった。

 

 小林さんが有給を消化して顔を見せなくなると、ますます暇になった。空いている時間の大半を私は真面目にも不動産の勉強に時間を割いた。


 国家試験である宅地建物取引士の資格取得に向けてネット記事を読み込んだ。同時に業界用語の現況有姿、指値、物出しなどネットから引っ張って覚えた。

 

 一ヶ月経てば、初めての給料が振り込まれた。社会人初めての給料は恐らく、深夜のコンビニのアルバイトとさほど変わらない給料。


 それでも感慨深いものがあった。自分で働いて報酬をもらう。それでも家賃や生活費を差し引かれれば、いくらも残らない。淡い夢を見て初めての給料をもらったら、自分にご褒美を何か買おうかと過った事もあったけれど、歯止めが利かなくなるのが怖かったから煩悩を捨てた。


 今まで私は贅沢やご褒美とは縁遠い生活をしてきたから。私に自由は似つかない。

 

 それから私は黙々粛々と仕事をこなした。夏が過ぎ、秋を迎えた頃になると、日々の勉強の効果を実感した出来事があった。


 他業者からの問い合わせの電話があった際に停止条件付きの契約が可能かどうかと問い合わせがあった際に、私は社長が不在で回答は控えるがどのような内容か尋ねた。


 すると先方は事務員の私に話す事を最初は躊躇った様子を見せたが、流暢に話してきた。その話を私は端的に繰り返すと、先方の営業は激しく同意した。


 要は購入を検討している客の自宅の売却の目処がたつ前に自社物件の契約をしてもらえるかどうかの相談だった。


 電話を切って社長に電話をするが、案の定繋がらない。いつもそうだった。


 社長の業務は仕入れから契約、決済まで全て一人で行うらしい。


 その分、最低限の人件費で賄えるから良いのだろうが、私の立場的には困る。ごく稀に急を要する電話が来ても連絡がつかず、こちらに催促の電話が来ても対応するしかない。


 仕方なしに社長の個人アドレスに要件をメールする。送っても三回に一回、返事が来る程度だった。

 

 お忙しい社長には要件は短く、最低限の情報だけを文面に打ち込んで送信する。


 一息ついてコーヒーを口に運ぼうとした時、電話が鳴った。


『ねぇ、社長いる? もしかして今日もいないの? どこに雲隠れしているか本当に知らない? うちも困って仕方ないんだけど』


『すっ、すみません。社長は不在で』


『あなたの会社がどれだけ迷惑をかけているか、ちゃんと知っているの? ねぇ、聞いてる?』


 この類の電話は頻繁になってきた。この人だけじゃない。他にも数件のクレームの電話はある。私が日々、頭を悩まし、吐き気さえ催す電話。


 声も聞きたくない。どうして私がこんな目に遭わなくちゃいけないと胸が痛い。引き継ぎの段階で小林さんからは聞いていた。

 

 聞いていたけれど小林さんがいた時は、小林さんが慣れた様子で対応してくれていた。毅然とした態度に持ち前の度胸の強さ。

 

 時には一方的に受話器の向こうで話している相手の声を煩そうに受話器を離し、私を見ながら舌を出して戯けた様子を見せる余裕があった。

 

 要は社長が仕入れた物件を買った買主からのクレームの電話だった。雨漏りが酷い。給湯器の接触不良でお湯が出ない。土地を買った買主からはハウスメーカーを通して、がけ条例があるから希望する家が建てられないなど様々だった。


 時には正式に国交省に問い合わせをする、裁判を申し出ると脅された事も。さらに訪問者も増えてきた。加盟している協会の人間。成田市役所の職員。上申書などの類の郵便物。時には出社時に玄関のドアに謎の殺害予告の貼紙まで。


 彼等には会社の現状を正直に話して頭を下げた。彼等は怒りこそ最初はぶつけてきたけれど、ある者は同情とすぐに会社を辞めた方がいいと助言を残した。

 

 私はどこか他人事のようにやり過ごした。今更、私を雇ってくれる会社もないから転職活動は上手くいかないだろう。


 だから私であって私じゃない存在。私は悪くない、私は悪くないと自分を俯瞰して物事を広く捉える。


 すると水の入ったコップを大きなコップに移し替えるように広く物事を捉えられる事で、防衛本能が作動する。

 

 それでも心のダメージは負っていた。やるせない気持ち。頑張って勉強してきたのに報われ無い現実。社長と連絡が取れない事に対する苛立ちとぶつける事が出来ない憤り。


 徐々に増えていく電話の数々。入社した時は閑古鳥が鳴いていたのに、鳴り止まない呼び出し音。頭が壊れそうになり、オフィスを何度も出た。このままじゃ駄目だと咄嗟に社長に電話をした。


 案の定、社長は電話に出ない。


 いつもの流れでメールする。


『休みを下さい』


 すると社長から返事がきた。


『だめだ』


 なんて非情な男なのだろう。この現状を知っているにも関わらず、私にこの場にいろと命令を出すのか。


 しかもいつもは返事を寄越さないのに、この時ばかりに返事は早い。いつも読んでいたんだ、私のメールを。


 それでいてこの対応。

 

 私は電話の呼び出し音が飛び交う空間で業務に勤しんだ。正確には業務と言うより宅建の勉強をするためだけに会社に来た。


 耳栓の上にヘッドホンをしてひたすらネット記事を読み込んでノートに書き記し、講習動画を聞きまくった。


 そして給料日当日。昼食を買いに近くのコンビニに寄って預金口座を確認した。給料が振り込まれていなかった。いつもは午前中に振り込まれている。


 私は給料日当日、いつも預金を確認していた。


 嫌な予感しかしなかった。変な胸騒ぎ。背筋に悪寒が走る。ろくに昼食を買い込まず、会社に戻る。そして社長に電話をする。電話に出ない社長。いつもの事だった。電話に出る期待なんてしていない事が殆ど。


 それなのに、今ほど電話に出ろと期待した事はない。すぐさま、社長にメールした。


『給料が振り込まれていません。どういう事ですか?』


 五分経っても返事が来ない。同様の文章を再送する。今度は十分待った。返事が来ない度に私は十分事に同様のメールを社長に送り続ける。ひたすら無心に。


 恐らく、クレームになっている事が山場を迎えて、金策に翻弄されているのだろう。


 徐々に心が奪われていく感覚。それと同時に頭痛と腹痛に襲われる日々を過ごしていた。黒く蝕まれていく心と体。こういう時の補償や保険については全く疎い。それに既に自我を失いかけつつある心身の状態で、最悪の決断をするしか方法はなかった。

 

 辛うじて残っている愛社精神。こんな会社でも私にとっては初めて社会人として働かせてもらった会社である。拾ってもらった恩は少なからずあった。社長に退職のメールを送る。身辺整理を行い、退職届をデスクに置いて会社を後にした。

 

 もう何も考えたくはない。自宅で布団に籠り、息苦しさは尽きない。腹痛に襲われる度にトイレに駆け込み、上から吐き出し、下からも吐き出す。込み上げる胃液と辛うじて食した吐瀉物の中には、私の心身に根強く張り付いた社会の膿が混じり混んでいるようで、何度も何度も生まれる度に吐き出した。吐き出して、また吐き出した。

 

 私はすっかり人間が怖くなった。どれだけ体裁が良くても、あれだけの罵詈雑言を受け続ければダメージは負う。日々張り続けていた薄っぺらい防衛心でさえ、すっかり意味をなさなくなった。


 だから買い物さえ、ろくに出来なかった。人の視線が怖い。どこかにまだ私に誹謗中傷の矛先を向けている人がいるのではないか。近くのコンビニには専ら深夜帯にひそひそと行っていた。


 食欲が無くなる事はなかった。培ったひもじい想いからなのか、体調は悪くても食欲が尽きる事はない。


 自分が稼いだお金で好きな物を不自由なく買える事の喜びを知った時だった。給料日の前日には、これだけ苦労して会社に来ているのだから、自分にご褒美を買おうと決めていた。


 そうやって我慢してきたけれど、いつしか心に決めていた決心は、その時ばかりはあっさりと崩れてた。カップ麺や甘い物。食事は全てコンビニで済ませた。


 家に帰ってきては食べて、腹が膨れれば、トイレで吐いて。腹痛が襲ってきたら出して。そして寝込む。


 社会から隔離された生活は一見穏やかだったけれど、いつしか思い描いていた生活とは程遠いように思えた。

 

 そんな生活を繰り返していると、あっという間に金は底をついた。


 また社会で働かなければいけないのか。怖い、社会が怖い。人間が怖い。何を言われるのか、恐怖でしかない。あんな仕事はもう嫌だ。働きたくない。でも働かないとお金がない。


 そんな事の繰り返しを布団の中で包まりながら考えていると、妙案を思いついた。


 祖父母に助けを求めよう。引っ越しの時だってお金を援助してくれた。なんだかんだ言ったって私の事を案じてくれるに違いない。一先ず、当面の生活費だけでも借りればいい。もらうんじゃない、借りるんだ。


『あっ、あの私、由夏ですけど』


 上手く舌が回らない。久々に声を発したから、口内が乾燥して喉が痛かった。


『……はぁ? どちら様で? 聞こえんじゃろうが』


 電話に出たのはお婆ちゃんだった。癖のある話し方は変わっていない。


『あの……由夏です。ご相談があって電話したーーー』


『コラ、ボケぇい。そんなやつ知らんって。あれか、オレオレ詐欺か? 仮に由夏じゃろうとそんなやつぁの事は関係ない赤の他人じゃ。つまらん電話してくるんじゃなかとなぁ。どうせ金をせしめる気じゃろうが、おめぇに差し出す金はないとな。さっさと消えんしゃい』


 一方的に電話を切られ、いつしか味わったクレーム電話の再燃した。あの時の映像が脳内に鮮明に映る。体は震え、スマホを放り投げるとトイレに駆け込んだ。社会の膿を一心に吐き出し続けても、全身を蝕む膿はいつまでも育っていた。


 私は社会不適合者なのだろう。何をしても上手くいかず、周りから邪険に扱わられて、存在するだけで疎ましく思われる。私が目を合わすだけで、呼吸をするだけで、煙たがられる。


 それじゃあ、どうして私は生きているのだろう。


 いつか夢中になって考えていた永遠のテーマ。あの時は結局、答えを見出せずにいた。それは今でも答えを出せていない。駄目だ、考えれば考えるほど、腹痛が襲ってくる。胸も痛い、呼吸が上手く出来ない。


 布団に包まり、悶え続けて闇に潜んでいると、いつからか玄関のドアを叩いて執拗に金を催促してくる男の野太い声が聞こえてくる。十中八九、賃料の催促だろう。既に金は尽きている。こちらとしては払えるものがないんだ。


 月日が流れると、やがてライフラインが止まった。兼ねてから決めていた事。結局自分では何一つ決められなかった。だから外的な力が働き、お前はもう終わりだと宣告を受けるまで留まろうと思っていた。


 冷蔵庫の中にあった腐ったプリンとお茶などあらゆる食材を口に放り込むと久しぶりの外に出る決心をした。


 もうこれ以上、ここに留まる気は毛頭なかったから。


 何年振りかに見た雪が降り注いでいた。街灯に照らされた雪が透き通って宙を舞う。


 柔らかにゆったりと身を任せて降り続く雪を見上げて、私は羨ましいとさえ思った。


 この自由気ままに、身勝手に、我儘に自分翻意な雪に嫉妬さえ覚える。

 

 喉に潤いを求め、アパートの駐車場に停めている車のフロントガラスに積もった雪を掬い取り、そのまま口に放り込む。


 冷たさより美味さが追い越して、幾度か夢中に頬張った。雪ってこんなに美味しいんだ。新鮮で食感がある。

 

 宛もなく、彷徨い続けていると見慣れた通りに出た。建物が目に入ると、その場で立ち止まった。そこはかつて働いていた不動産会社。私が初めて社会人として働いた会社。


 通りに面している窓にはテナント募集の紙が貼られていた。今思い返せば、懐かしい思い出。様々な思い出が沸き起こると、なんだか笑えてきた。社長はどうしているのだろうか。方々に追い求められているに違いない。


 小林さんは結婚して幸せな家庭でも築いているのだろうか。もしかしたら私の人生は、あの時からこんな結末になると決められていたのかもしれない。

 

 すれ違う人々は私をあからさまに避けて、奇異な視線を容赦なくぶつけてくる。そりゃそうだろう。


 だって今の時代にホームレスの女性が一人、彷徨っているのだから。着の身着ぬ儘、薄汚れたジャージに肩下まで伸びた髪の女。実に不愉快だろう。人生に希望を持ち、日々の生活に余裕を持っている彼等からしたら、底辺の女だ。

 

 そこで世間がクリスマスだと気付いたのは、駅前の大通りに出た時だった。大通りに面した店々の前には賑やかな音楽と装飾が施されている。クリスマスの思い出なんて何一つない。


 クリスマスはキリストの誕生日だと認識していたが、私の誕生日ですら祝ってもらった記憶がない。誰かに生誕を祝ってもらえるほどの祝福を受けた事すらない。所詮、私の存在だなんて大気に舞う塵のような小さな存在なのだろう。

 

 そこでふと我に返ると、冷え切った両足は棒になって動けずにいた。どれだけ寒空の中を歩き続けたのだろう。安物のスニーカーの先端はくたびれて親指が突き抜けていた。もはや両足に感覚がない。

 

 もう一歩、もう一歩と気力を振り絞って右足を動かした瞬間、派手に前のめりに転んだ。


 両手をついて転んだとはいえ、派手に顔面を地面に叩きつけた。それほど積もっていない雪に顔を埋める。なんて無様なのだろう。


 街中に流れる洋楽のクリスマスソングの中、嘲笑や訝しむ声が聞こえてくる。これらは全て私に向けられた声なのであれば、このまま時が過ぎて心臓が止まってくれればいい。


 こんな辱めを受けて、誰も救いの手を差し伸べない世の中ならば。そもそも私が生きている理由って何だったのだ。


『ちょっと止めなって』


『だって、このままじゃヤバいでしょ』


『だったら警察とか救急車呼んだ方が良くない?』


「だっ、大丈夫ですか?」


 喧騒の中、若い女性らしき声が複数聞こえてきた。それが私に向けられているのかどうかわからない。


 確かめたい。寒空の中、久々に向けられた暖かく優しい言葉。


 これが私に向けられた言葉ならどれほど嬉しい事だろう。


 ゆっくりと雪に埋めた顔面を上げて暖簾のように塞がった前髪を掻き上げると、眼前にしゃがみ込んだ女性一人とその後ろに女性が二人立っていた。いずれもお洒落で綺麗な服装だった。


 恐らく私と同年代。髪は私と違って艶やかだった。化粧もされた端正な顔立ちは今時の女性。しゃがんで不思議そうに私を見つめている女性が救いの言葉を向けてくれたのだろう。白いコートとマフラーが暖かそうだった。


「……あなた、もしかして?」


 私の耳には確かにそう聞こえた。もしかして私を知っている人なの。私の記憶にこれだけ綺麗な女性の知人はいない。


 するとしゃがみ込んでいた女性が立ち上がり「ねぇ、あんたもしかして由夏じゃない? ねぇ、そうでしょ。聞いて、やっぱり由夏よ、この子」と後ろに立っている女性達に私を指差して同意を求め始めた。今度は後ろに立っていた女性二人が近づいてきてしゃがみ込むと私の顔を覗き込み始めた。


「うわ、本当だ。この貧乏そうな目つき、絶対そうよ」


「嫌だ、汚ない。あんた、こんなとこで何やってるのよ」


 三人揃って私の事を汚物を見るような目をして笑い出した。何が起きているのか、私にはわからない。


 確かな事は彼女達の話から察するに、彼女達は高校の同級生のようだった。私には彼女達の事はさっぱり記憶がない。


 というより高校では殆ど同級生と会話もしていないからわからない。


「あっ、あのーーー」


「じゃあね。いい笑い話になったわ。私達、これからデートなの」


 最後は見向きもせず、彼女達は非情に立ち去った。これが現実。淡い期待を抱いたから罰が当たったんだ。


 身の丈にあった生活や言動をせずに、背伸びをしたから。彼女達のようなお洒落をして恋人を作って、デートをしたり青春を謳歌する事さえ、私には許されない。


 煌びやかな生活。


 何不自由ない生活。


 悔しい。人生で初めて、そう思った。


 どうして私には出来ないの。どうして私には許されないの。悴んだ両腕を思いっきり地面に叩きつけた。痛みは寒さで麻痺している為、物理的な痛さはないが、心が痛かった。


 涙が溢れてくる。


 涙が寒さで凍る事はなかった。


 ただひたすら流れ続ける涙を私は忘れないと決めた。


 そこから何とか立ち上がると、再び彷徨い続けた。一先ず、寒さを紛らわす為、駅のロータリーを抜けて構内で休もうと考えた。


 適当な場所を見つけて腰を下ろすと体育座りをして両足の間に顔を埋めて休んだ。呼吸を整えようとするも肺まで冷え切った空気が入り込むと咳き込む。


 横になろうとすると腹痛が襲い休めない。


 目を閉じると余計に頭痛が目立って目を瞑る事が出来ない。


 寒さに震えていると胸から込み上げるものを感じ取った。いつかの社会の膿を吐き出す時の感覚に近い。


 喉元を通り過ぎて口内まで押し寄せると俯いたまま口を開いた。

 

 大量の吐血だった。嗚咽を繰り返し、目や鼻からは体液がこぼれ落ちる。いつもの社会の膿とは勝手が違った。


 突如として襲ってきた痙攣が全身を蝕む。小刻みに震えながら、自分の体に何が起きているのか戸惑いはあるものの、悲観的には不思議とならなかった。


 ゆっくりと私は体育座りの姿勢を崩さぬまま、横に倒れる。収まらない痙攣がより加速する。

 

 悲しくなかった。


 その証拠に私は笑った。


 何故なら嬉しさが増しているから。


 自分の優柔不断さが功を奏す事は今までなかった。


 だから追い込まれて、追い込まれた結果、こんな形の一つの終わりを迎える事が出来て安心した。


「おい、お前さんよ。一つ、これを買ってくれぬか?」


 微睡む思考の中、優しい女性の声が脳内で木霊する。霞む両目を見開くと目の前に老婆が立っていた。フードを被っていて白髪を覗かせる。


 見た目はどこにでもいそうな女性。不思議と柔和な笑顔を向けてくれる女性が仏様のような神格的な存在に見えた。


「これを買ってくれぬか?」


 老婆が私の顔の前にぶら下げて見せたのは、ネックレスのようなものだった。青く透き通った宝石が装飾されている。


 それよりも私のこの状況に平然と話しかけてくる老婆に違和感しか覚えない。


 死期を悟っている私にはどうでもいい事のように思えてきた。


「すっ、すみませんが……今の私には持ち合わせがーーー」


「いくらならあるんじゃ?」


 ズボンのポケットを弄ると小銭を掴んで老婆の前に差し出した。


 老婆は私から小銭を受け取ると手の平で数え始めた。


「……百九十五円かの」


 これが今の私の全財産。金は天国では使えない。持っていたって意味がない。


「いいじゃろう。これを売ってやろう」


 すると老婆は横たわる私の首にネックレスをかけた。


「お前さんには、心残りはないのか?」


「……こ、ころ、残りですか?」


「あの時、ああしとけば良かった。あの時、あんな事を言わなければ良かった。人生なんて後悔の連続じゃ。でも過去を変える事なんて出来ない。だから人生は後悔の連続なのじゃ」


 この老婆は人が死ぬ時に説教をするのか。私の人生がこんな形で終わるだなんて。


 呼吸が難しくなってきた。腹痛が増してきている。意識が飛びそうだ。


「もし心残りがあるのなら、死に際に願うといい。さすれば願い事は叶うかもしれん」


 そう言って老婆は立ち去っていった。


 後悔をする程、自分に自信はなかったし、希望や期待を持った事がない人生だった。


 それは私の生い立ちや生活環境に起因するのかもしれない。選択肢は多くなかったし、強いられる事ばかりだった。


 また込み上げるものが多くて咳き込むと吐血した。これが死を迎えるという事なのか。


 かつてあれ程、死に対して興味を抱き、自身の死生観を構築したものが、今こうして迎える事になるだなんて。

 

 思い返せば、あの時の星哉くんが全て正しかったのかもしれない。星哉くんはあの日、この世界に未来はないと言った。


 あの時の星哉くんを反面教師のようにして死を拒否した。生き続けて幸せな生活を星哉くんに証明すると豪語したにも関わらず、今の私は無様に死のうとしている。


 私のような人間に幸せは訪れない。


 身の丈に合った幸せすら叶わない。

 

 心残りがあるとすれば、星哉くんに謝りたかった。


 あの時はごめんねと。


 あの日、星哉くんの家に行った帰り。私が豪語したから星哉くんに寂しそうな顔をさせてしまった。

 

 意識が微睡む。両目が重たい。もはや全身の感覚がない。


 このままそっと両目を閉じれば私は死を迎えるのだとわかる。


 もう、いいよ。


 もう、私は頑張った。


 ずっと積み上げてきた考えを全て改めて希望を抱いて、前向きに生きてきたけれど、結局何もかもが駄目だった。


 願わくば、いつか普通の人生が送れるように。


 私はゆっくり目を閉じた。

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?