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『二人のソクラテス』最終話

 まるで長い夢を見ているようだった。


 目を覚ませば、それは夢ではなくて全て真実であり、確かに私が体験したような感覚が全身を襲った。


 たった一度の大きな後悔が私の人生を大きく変えた。


 その後悔を後悔のままにしたくなかったから私は星哉くんとの再会を願った。


 そして悔いを残さず、確かに星哉くんと会い、謝罪をして今生の別れを告げた。


 ベッドから起き上がり、リビングのソファーに座る叔父と叔母の前を通り過ぎて、壁に掛けてあるカレンダーと流れるテレビの音声に聞き耳を立てる。今日は星哉くんの両親が亡くなって四十九日が過ぎていた。


 結局、この日に戻ってきてしまっていた。


 私は二年後の未来を過ごしたのに、わざわざ過去に戻ってきていた。だとしたら星哉くんは既に亡くなっている世界。


 胸に飾っていた老婆からもらっていたペンダントもいつの間にか無くなっていた。あの時と一緒だった。でも左手の薬指には星哉くんからもらった指輪が残っている。


 どうしてこの世界に戻ってきてしまったのだろう。


 何がそうさせてたんだろう。


 確かに心残りはあった。


 でもそれは、解消した。


 それならば私はそのまま天に召されて私の人生は終わっていいはずなのに。


 星哉くんのいない世界を二度過ごす事は何より辛い。


 こんな世界なら一分先、十秒先の未来すら私にはもういらない。


 徐々に襲ってくる絶望に希望を見出せそうにない。

 

 叔父と叔母の見えない圧と重苦しい空気に耐え切れず、一先ず外出した。


 やはり私が知っている街並みだった。変わり映えのしない景色。ほっとしたと同時にこの先、生きていく未来が見えそうにない。

 

 あの時の私は一つの決心があったから生きていけた。星哉くんに明るい未来を見せる為に高校を卒業して不動産会社に就職した。


 結局、私のその一言が星哉くんを傷つけて、就職した会社が酷い会社で無一文になり、徘徊した先で死ぬ事になったけれど、今は生きる目的も意志もない。

 

 星哉くんと出会った河川敷に来ても、何も起こらないし、何も変わらない。


 川の流れる音や木々のせせらぎ。虫の鳴き声と子供達のさんざめく声。


 一見、平和の中に平凡さと退屈が紛れていて、それが私をさらに絶望させた。 

 

 本当に星哉くんは、この世界にいないのだろうか。


 薬指に嵌められた指輪に触れると、少し暖かった。この指輪だけが唯一、残されて私はこの世界に来た。


 きっとこれも何か意味があるに違いない。


 結論付けるには、まだ早い気がしてきた。


 この目で見て、この体で感じてからでも遅くないのかもしれない。


 重い腰を上げると、私は駅に向かって歩き出した。


 星哉くんの家に行って確かめるしかない。


 もしかしたら辛い現実に再び、遭遇する事になるのかも知れない。


 またあの日、味わった現実が私の胸を抉る事になるのかも知れない。

 

 あの時はその現実が学校中に広まり、その日の私は嘔吐を繰り返した。陰湿極まりないいじめだった。


 私と星哉くんが一緒に歩いていた所を誰かが目撃した。

 

 星哉くんの自殺は私が原因だと根も葉もない噂が広まり、正常に回らない思考と体調不良の日々を過ごした。

 

 怖かった。


 何も言葉を添える必要がないくらい、怖かった。


 星哉くんの死が、現実が。


 逃げ出したかった。


 楽になりたかった。


 でもあの過ごした時間がそれが出来ない、やりたくないと思える新しい私に出会えた。


 それら全てはあの世界で経験して培ってきた人間力が、私の足を星哉くんの家に向かわせた。


 自分が歩いてきた人生という道を振り返った時、あの道を曲がれば良かった。


 或いはあの道を通らなければよかったと後悔しない人生だなんてないのだから、進むしかない。

 

 私は自分の目を疑った。


 願望が妄想として具現化されて、夢が現実として可視化されたのかと疑う程に。


 一歩、一歩と足をゆっくり駅に進めていくうちにそれが、妄想でも夢でもないとはっきりした。

 

 星哉くんが駅のロータリーに立っていた。


 確かにあれは星哉くんだ。


 長身痩躯で癖っ毛な柔和な笑顔と優しい瞳。天邪鬼で素直じゃない一面を持っているけれど、本当は思いやりが人一番強くて、いざという時に頼りになる。


 私が初めて恋を知らずに愛した男性。

 

 星哉くんと目が合った気がした。


 すると星哉くんは笑顔で私に手を振ってくれた。


「……星哉くん」


 星哉くんはこの世界で生きていた。


 それがどれだけ私の心を震わせたのだろう。


 星哉くんが生きてくれている事が希望を与えてくれた。


 絶望の暗闇の中に一筋の光が差し込まれた瞬間だった。


 溢れる涙を拭かずに私は走った。


 脇目も振らず、星哉くんの胸に飛び込むと、星哉くんは私を力強く抱き締めてくれた。


 私の未来は確かに変わった。


          〈了〉

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