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『二人のソクラテス』第2話

 世間と足並みが揃わない日々を過ごしていた。

 

 毎日が同じ事の繰り返しに、生きがいを感じず、刺激的な日々を望む訳ではないのだが、答えのない生活に鬱屈した気分を抱えた状態の生活に嫌気が差している。


 毎朝、起きれば息苦しい。溜息の連続と吐き気を催して、今日も一日始まってしまったと肩を落とす日々だった。


 かといって、現状を打破する程の気力もなく、打破するきっかけとなる出来事があるのかと言われれば全くない。

 

 良く言えば平和。


 悪く言えば退屈。

 

 自分が何をする為に生まれて生きているのか。


 存在証明のようなものが見つからない。


 そんな物がなくても良いじゃないかって意見もあるだろうが、答えが見つからないまま生きるには息苦しさを覚える日々だった。


 そんな生活を過ごしているから、記憶もあやふやだ。


 高校を卒業したのかどうか、一体、今の僕はどんな状況に置かれているのか。


 自分がどんな人間かなんて忘れてしまった。

 

 確かな事は、両親が結婚生活二十五周年記念の所謂、銀婚年に世界旅行に行っている事。


 しかも一人息子の僕―――星哉を置いてだ。


 もっと言えば、親父が経営しているこの香取不動産株式会社を僕に委ねて、世界旅行に行ったという大胆不敵な行動。


 実に不愉快だ。

 

 ある時、起きたら枕元に紙切れ一枚置かれていた。


『あとの事は任せた。わからない事は春菜さんに聞いて何とかしろ』


 春菜さんというのは、この会社に勤めている事務員の女性。


 三十代くらいの知的な銀縁眼鏡が印象的な人だ。


 口数は決して多くはなく、仕事を淡々とこなしているイメージが強い。

 

 三階建ての一階部分は店舗スペース。


 二階から上が居住用スペースの我が家は、三十年以上、この地に不動産会社として店を構えている。


 千葉県の北東部にある不動産会社では決して歴史は古くはないようだが、親父の親、つまり僕の叔父がこの地に店を構え、それを叔父が亡くなった為に親父が跡を継いだと母さんから聞いた。

 

 両親が旅行に出かけてから早一ヶ月。


 六月のマリッジブルーと言われる月に二ヶ月の世界旅行。


 大いに結構。

 

 ラブラブの両親には縁遠いだろうが、せいぜい別れの悲劇旅行にならないよう、無事帰ってきてほしいものだ。

 

 起床して簡単な身支度を済まして、一階に降りると、春菜さんは自身のデスクに座りパソコンと向き合っていた。


 僕が降りてきたのを察知したように振り返ると「こんにちは」と一瞥して再びパソコンと向き直った。

 

 こんにちは……と挨拶されてもおかしくない時間帯だった。十一時を過ぎているのだから。


 昨夜は屋上で趣味の天体観測を遅くまでしていた。今の時期は土星の環がはっきり見れる。


 父親が買ってくれた望遠鏡から覗けば写し出される光景を見て、非現実的な体感を味わえる。


 そうして時々、現実から目を背けて生きてきた。幻想的な世界に心を委ねて、息苦しい世界から逃避する事で、何とか生き延びてきた。

 十坪程度の店内スペース。


 申し訳程度のカウンターと接客ブースにデスクが二つ。


 田舎の不動産会社と言われて否定は出来ない無機質な空間。

 

 春菜さんは両親が旅行に行く事は流石に聞かされていたようで、その間の店の責任者を僕に委ねると聞かされているらしい。


 世間では恐らく、罷り通らない事に春菜さんは反論をせず、頷いたと春菜さんから聞かされた。


 ただ春菜さん曰く、来店客が来る事は多くはないし、月極駐車場の管理や賃貸がメインだから、それほど心配する事はないと僕を安心させた。


 それなら良いと、親父のデスクに最初は座り、責任者として胸を張って雰囲気を醸し出す悪ふざけをしてみたが、直ぐに何をすれば良いのかわからない僕は仕事を放棄した。


 どうせ、僕がいた所で何かが変わる訳でもないし、春菜さんの仕事の邪魔になるだろう。


「……昼飯食ってきます。何か買ってくるものありますか?」


 店内から表に出る出入り口に差し掛かった時、春菜さんの横顔に向けて尋ねたが、一瞬考えるような間の後に「結構です。お気持ちありがとうございます。行ってらっしゃいませ」とやんわり断られた。


 僕なりに店を任せてしまっている事に気を使ったつもりだった。

 

 春菜さんはどうやら僕に対して一定の距離を保っている節がある。


 それは社長の息子と従業員の関係性以外の何かがあるような気がした。


 でも検討はつかないし、直接春菜さんに尋ねる事も面倒だった。

 

 最近は何だか割り切れるようになってきたし、どうでも良くなってきた。小さな溜息をついた後に、店を出た。

 

 商店街通りに面した自宅は食材の宝庫だった。


 廃れた看板、胃袋がそそられる油の香りと活気づいた声が気に入っていた。


 家から出ればコンビニはあるし、私鉄の最寄り駅まで歩いて五分はかからない。

 

 古くから北総の小江戸と呼ばれる程、商家町と栄えた町。


 南北に流れる小野川を水運として利用して物資の運搬を行っていた歴史があり、今でも歴史的建造物が多く残されている。


 観光スポットとしても人気で県外ナンバーの車をよく見かける。


 僕にはルーティンがあった。


 近くの喫茶店でアイスコーヒーを買って小野川沿いを歩きながら、商店街を食べ歩きして自宅に戻る。


 今日はお惣菜店に立ち寄り、メンチカツを食べながら戻った。この街の住人達の大半は親戚みたいな関係性だった。


 小さい頃から近所付き合いを上手くやってきた両親のおかげで知っている人達ばかりだった。


 みんな、人情味があり親戚のおじちゃん、おばちゃんみたいな存在。それが今になっても続いている。


 人付き合いは決して得意ではないけれど、この街の人達は僕にとって特別だった。


 だから自分の世界を害される事を僕はひどく嫌う。


 気分屋の一面を持っている僕は、穏やかで平凡な生活が続けばいいと考える一方で、この平凡な生活から一歩でもいいから自分の生活を大きくしたいって考えが一パーセントくらい持っていた。


 時々、その一パーセントが邪魔をしてきて、僕は何の為に生きているのだろうと。


 自分という人間が特別なのかどうか他人と比較出来る、友人や知人がいない。


 比較する人物と言えばせいぜい、会った事もないテレビに出ている芸能人を勝手に妄想して人物像を描き、自分と比較するくらい。


 そんな存在だから、憧れや嫉妬は生まれない。だから平凡な生活を送っている。

 僕は何がしたくて、何が好きで、何が一番夢中になれるのだろう。


 薄らとぼんやりとした焦りや不安を抱えながら、この街で生活していた。


 夕方前になれば春菜さんは娘がいるので帰ってしまう。


 帰り間際、もしかしたら春菜さんに宛に電話がかかってくるかもしれないと言われたが、明日かけ直すと伝えてくれと言われた。


 その時、春菜さんに言われたと思うが、肝心の客の名前を覚えていなかった。


 案の定、春菜さんが言っていた借家のオーナーから電話があった。


 何でも賃借人が退去して売買をやりたい。お願い出来ないかとの事だった。確か親父は売買に消極的な考えを持っていた気がする。

 

 一先ず、言われた通り明日、かけ直す事を伝えて電話を切った。


 切った瞬間、春菜さんはこの案件をどう処理するのだろうとぼんやり想ったが、すぐに考えは消え去った。


 どうせ僕には関係がない事。


 今日も一日が終わろうとしている。ようやく十八時を過ぎた。


 店の営業時間は十八時三十分。外は薄明るいが、三十分くらい早く閉めても誰も文句は言わないだろう。


 平日のこんな時間に客も来る訳ない。元々廃れた看板目掛けて訪ねてくる客はいないだろう。


 重い腰を上げると、既にシャッターが下されている向かいの文房具屋の前で、廃れた小汚い上下ジャージ姿の人物と目が合った。


 走り目程度だったが、いかにも着の身着ぬままで飛び出してきた家出女の雰囲気。


 すると向こうも僕をじっと見ていたが、僕より先に視線を逸らした。


 知った顔をぼんやりと思い浮かべたが、どうも家出女と似つかない。


 さっさと風呂に入り、十九時から始まるバラエティ番組でも観ようと決めていたけれど、妙な胸騒ぎを覚えた。


 店内側からシャッターを下ろそうと両手を伸ばした。


「……星哉くん?」

 

 確かにそう聞こえた。あまりにもか細い声だったから空耳かと思った。


 一旦、シャッターを掴んだ両手に込めた力を止める。余韻を噛み締めた時間は約三秒程度。


 結論は気のせいだと下した。


 今度はシャッターを下まで下ろした。


 よし、あとは店内の消灯をするだけと踵を返した瞬間、目の前のシャッターが揺れて外側から衝撃音が響いた。


 心臓が飛び出る程の衝撃音。


 音の隙間から僅かに聞こえる「開けろーーー、せいやぁぁぁ」の声。


 心当たりは全くない。


 全くないが、さっきの空耳と確かに僕の名前を呼ぶ女性らしき声。


 恐る恐る「なっ、何ですか?」と衝撃音が鳴り止んだ後にシャッター越しに尋ねた。


 最低限の防衛ラインは死守しなければならない。


「私、私よ。由夏」


 若干、やけくそ気味な言い方が鼻についた。


 いきなりシャッターを殴り、自己主張強めのこのアプローチを食らった側に対する言動ではない。非常識も甚だしい。


 そこで『ゆか』という女性に覚えがないか、記憶を辿ろうとした時、頭痛が襲った。


 痛みに辛うじて耐えられる程度の強さだったが思わず、膝をついて頭を抱え込んだ。

「ねぇ、ちょっと聞いている? 星哉くーん?」と僕の状況に対してお構い無しにシャッターを再び叩きながら呼ぶ、その由夏の傲慢さ。


 あぁ、思い出した。思い出すと頭痛は和らぎ、仕方なしにシャッターを再び開けた。


 目の前に姿を見せたのは、向かいに立っていたジャージ姿の女だった。


「ひっ、久しぶり? 元気だった?」

 

 よく平然と言えたものだ。さっきまで人様の家のシャッターを叩いて僕を呼んだ無礼の後に平然を装えるもんだ。


 特徴的な大きな目を光らせて、僕より少し低い身長から見上げてくる由夏。


 悔しいけれど彼女のぎこちない満面の笑顔を見た瞬間、懐かしさを覚えた。

 

 そこから由夏を一旦、店内に入れて応接室とは決して言えない古びたソファーに座らせた後に再び表のシャッターを閉めた。

 

 手持ち無沙汰に座っている由夏にペットポトルのお茶を差し出すと、蓋を開けて勢いよく飲み干した。


 さて、どうして由夏は突然僕を尋ねて来たのか、訳を聞かせてもらおう。


「あのさ、いきなりだけど星哉くんって今、何歳?」


 全く予想外の質問が先に飛んてきた。


「……頭どうかしたか? お前と同じ十七だけど」


 答えると由夏は何故か嬉しそうだった。その後も変な質問が立て続けに飛んできた。


 カレンダーを見せろだの、テレビを見せてくれだの。まるで今を知りたがっている感じだった。


 答えによって難しそうに考え込んだり、嬉しそうにしたり一喜一憂する表情を見ていると、深く尋ねる事を控えるべきか悩んだ。


 彼女の今の生活を以前、聞かされていただけに何かあったのではないかと心配になってきた。


「……それで何かあったのか?」


 僕の問いに俯いて塞ぎ込んだ由夏。


 由夏は以前、ここに一度連れてきた事はあったが、それは両親がいた時だった。


 今、両親が不在の時に来られても何が僕に出来るのだろう。


「私を泊めてくれないかな?」


 顔を上げて答えた由夏の言葉は再び予想外だった。


「はぁ? お前何言ってんだよ。だってお前のとこの家はーーー」と言った瞬間、由夏の家庭状況を思い出した。


 こいつはこいつなりに事情があったんだ。かといって同じ屋根の下に住まわせるのは流石にまずい。


 春菜さんの冷徹な顔がすぐに浮かんだ。


「いや、でも流石にそれはまずいだろう? とりあえずお前のおじさんとおばさんに連絡しないと」


「やっ、やめてそれは」


 力強く拒否してきた由夏。何かあったのは間違いなさそうだった。とりあえず明日、春菜さんに相談してみよう。


「向かいにある文具屋の上に部屋が空いている。隠れ家的に住んでいた部屋だから、そこを使えよ」


 最初は親父が会社名義で倉庫として買った部屋だったが、今は僕が趣味部屋として使っていた。


 一LDKの間取りだから十分だろう。鍵を渡すと嬉しそうにする由夏。


「腹、減っていないか? 商店街で買った惣菜ばかりだけど、これが結構美味くてーーー」


「食べるーーー」


 食い気味に答えた由夏の目は輝いていた。


 それから食事を済ませると由夏を連れて向かいの部屋を案内した。


 特段、由夏に見られて困るものもない。というより僕の私物は全部処分したし、一通りの家具が揃っているだけだから問題はなかった。


 ただ考えてみると、女性物の着る物は流石に揃えていない。


「明日、当面の生活に必要な物はこれで買ったら?」


 一万円を由夏に渡すと申し訳なさそうに「ありがとう」と答える。


 部屋を出て道路に出る。空を見上げると、満天の星空が僕を出迎えた。


 道路を挟んでかつて想いを抱いた女性との奇妙な一夜を迎える事になった。

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