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『眠れる海の乙女』第14話

「……これが架純の現状だよ」

 聡は傍らに立つ俺に、力ない言葉を投げかけた。架純がいる家を聡の合図で飛び出し、今は家から数軒離れた場所にある小さな公園のベンチに腰を下ろしている。

 事実を受け入れられなかった俺は、聡と一緒に市原市内の住まいを訪れた。ベッドに横たわる架純は、俺が知る架純ではなかった。架純がいる所まで数歩歩けば届く距離にいたにも関わらず、架純は俺を認識しなかった。視界に捉えられる角度にいたにも関わらず、俺を捉える事はなかった。呼吸を抑え込み、聡と架純の会話を立ち聞きするように言ったのは聡からだった。

 聡が架純のいたアパートの部屋で泣き崩れる俺を見兼ねて後日訪れた事が先程の出来事。俺は架純の現状を受け入れた。

 受け入れたと同時に思った事が二つあった。一つは架純の変わり果てた姿を見たにも関わらず、涙が一つも出なかった。本来ならば恋人が苦しむ中、悲しみや憐れみを持つべき所のはず。ある一定の悲壮感は覚えた。架純の普段と変わらない声や俺には見せない兄弟間の会話に、新鮮な気持ちと元気な様子が見られた事に安堵を覚えたのかも知れない。客観的な立場で架純を見ていてそう思った。もしかしたら、既に泣き過ぎて涙の泉が枯れ果てたのかも知れない。

 もう一つは架純の病気について。架純が書いた日記やある程度の架純に関する情報は聡や結衣から聞いていた。それでも本当に何か手だてはないのか。気持ちが前向きに物事を捉えるようになっていた。

「架純があんな事になったのは、俺のせいなんだ」聡が物憂げに夜空を見上げながら、ゆっくりと口を開いた。

「父親の転勤で茨城県に家族で引っ越して、慣れない土地と慣れない環境で家族みんなが神経擦り減らしていた。社会人になって初めて分かったよ。あの時一番苦労していたのは父親だったんだって」頭を掻いて自嘲気味に話す聡。

「酔っ払って帰って来る父親を初めて見た時は驚いた。慣れない酒に溺れる姿は、滑稽で無様に見えた。だから……だからあの時、あんな事を言ってしまった」

 歯を食いしばり、苦しそうに顔を歪めている。悲壮な想いは痛い程伝わってきた。

「俺の一言をきっかけに父親は、暴力を奮うようになった。体力的には父親に勝てても腕力では勝てなかった。架純はその間、押入れに隠れていたよ。キーホルダーを握り締めながら、父親が俺や母さんに向ける罵詈雑言から必死で逃げていた」

 そのキーホルダーはもしかして……だから架純が持っているキーホルダーは俺が持っているキーホルダーより色褪せていたのか。

「俺や母さんがいない時に父親は、架純に暴力を奮いやがった。それをきっかけに両親は離婚。それでこっちに戻ってきた訳だ」

「……そうだったんですね」

 架純の日記には、そこまで書かれていなかった。架純が店を訪れた時に両親が離婚した事は聞いていたが……こんな過去があったなんて。

「その後は架純の日記にも書いてあった通りだよ。あぁ、日記は結衣さんに見せてもらったんだ。部屋の解約の件で初めて店に行った時にね。架純が日記書いているなんて知らなかったけどな」

 架純はどんな気持ちで俺に会いに来たのだろう。あの日記の背景に、こんな出来事があったなんて。あの日記をどんな想いで書いたのだろう。架純への想いは募るばかりだった。

「俺があの時、父親にあんな事を言わなければ、こんな事にはならなかった。架純はあんな事にならなかったんだ」

「でも、それは――」

「原因不明って言われているらしいが、ストレスが原因だって説もあるらしい。架純の担当医師が言っていたよ」

「だからって……」

「償いをする訳じゃないが、架純の為に家をバリアフリーにリフォームした。架純が隼人君に会いに行って一人暮らしを始めると聞いた時だって心配して……」

「その、本当に架純の目は……」俺の問いに顔を向けた聡は、何かを言いかけそうに口を開くも「……あぁ。悔しいがな。無念だよ、本当に」と歯を食いしばっている。聡が放った言葉に違和感を覚え、他の言葉を求めようとした時、聡は腕時計に目をやった。

「そろそろ帰るよ。架純が心配しているだろうから」立ち上がりベンチに座る俺を見下ろす。

「そういう事だから架純の事はもう……」頭を下げる聡に声をかけようとした時、俺の言葉を待たずに聡は顔を上げ、俺の前から足早に立ち去った。顔を上げ、一瞬聡の顔を覗いた時の聡の目には光る物があった。それが見て取れたから、俺は聡の後を追う事は出来なかった。

 溜息をついてベンチの背凭れに寄りかかると空を見上げた。この夜空は今の架純の目にはどう映るのだろう。あの星もあの雲も、架純には違った色や形に見えるのだろうか。視線を落とせば、あの木々も、葉も、あの遊具も、当たり前に見えていた物や人、動物や現象が架純にとって当たり前でなくなる。今まで見続けていた事、知っている事、出来ていた事全てが出来なくなる。俺はそんな世界が訪れたと想像すると身震いがした。

 その世界では今まで培ってきた常識が常識ではなくなり、心は朽ち果てるに違いない。架純の事が心配になった。ベンチから立ち上がり、架純の家に自然と足が動く。自分がもし同じ立場なら、この世界で生き続ける事なんて難しい。今こうして見えているだけに失うものが余りにも多過ぎる。誰かに助けを求めたいに決まっている。当然身内は架純に寄り添う事になるだろうが、一歩外に出た時の現実世界はそんなに甘くない。時には心無い言葉を浴び、幾度も心が折れる事だろう。

 架純に手を差し伸べる事は何か出来ないだろうか。こんな形で架純と距離を取る事になり、架純の家の前に着いて自身を見つめ直していると「……隼人君?」と声が聞こえた。

 声が聞こえてきた方を見遣ると、視線の先に優子が立っていた。

「……あぁ、架純の……」数年前の記憶を手繰り寄せると合点がいった。

「随分、男前になったわね。架純が気に入る訳だわ」俺の記憶にあった優子よりも、目の前に立つ優子は頬がこけていて痩せ細っていた。俺が軽く会釈をすると「……架純に会いに来たの?」と俺に近づいて来た。頭を振り今までの聡との経緯を伝えた。

「そう……全部聞いたのね」

「……はい。ただ、少し気になる事があって」俺は先程の聡との会話の中で気になっている事があった。聡が言いかけたにも関わらず、言い直した事。聡が言った事以外に、他の事実があるのではないのかと思っていた。

「架純の病気は、本当に治療法がないんですか?」

 俺の眼差しを正面から捉えた優子は口許を緩め、何かを達観したように視線を落とした。俺には優子の仕草が既に答えを聞かされているようだった。

「無い訳じゃないらしいわ。アメリカに行けば可能性があるみたいなんだけどね……」

「……アメリカですか?」

「アメリカでは架純の病気の研究とかが進んでいるらしいの。担当の先生が教えてくれてね。でもそれには金銭的に今の私達にはとても……それに……」

「それに?」

「架純がね、手術を望んでいないの」

「……どういう意味ですか?」

「気を遣っているのよ、私達に。これ以上お金の面で迷惑をかけたくないって」

「……だからって――」

「何度も、何度も説得したわ。でもね、架純は頑なに首を振るのよ」

 優子の言葉に違和感を覚えた。それは不透明で確かな違和感ではなかった。

「あの子は優しすぎるのよ。私が不甲斐ないから、架純の病気に気付いてあげられなかった。あの時にもっと早く気付いていたら、こんな事にならなかったんじゃないかって、何度も後悔したわ」

 聡が話した事を想い出した。聡は聡で苦しみ、優子もまた同じように苦しんでいた。

「だからね、隼人君? 架純が手術を望まないなら、これからずっと架純を支えていこうって聡と話して決めたの。だから家をリフォームして、こうして一緒に暮らす事にしたのよ」

 違和感が確信に変わった。

 優子が言う事も一理あると思う。母親として架純を育ててきた分、俺には見せない素顔を優子は知っているに違いない。俺が知る架純に重なる部分は大いにあった。

 架純が手術に応じない理由が他にあると思った。架純は単に優子や聡に気を遣って手術に応じない訳ではない。

 きっと架純は手術が怖いんだ。

 俺にはそれが感じ取れた。想像しただけで恐怖に震え、この世界に絶望を覚える。信じていたもの……常識が常識で無くなっていく。そんな崩れていく日々を過ごしている最中、一縷の望みを抱いて決心し手術を受けたとする。だが万が一、架純の目に光が訪れなかったとしたら……。

 難病だとしても手術が成功して、光が訪れる可能性もあるだろう。反対に絶望を繰り返す日々に、最後の希望を壊す鉄槌を下された時の心情は計り知れない。それがきっと架純には怖くて、怖くて仕方がないのだろう。もしそれが本当の理由だとしたら、優子と聡が金を工面した所で架純は手術に応じない。

「……隼人君?」

「……はい」

「架純の事、責めないでね」優子の話す事に意味を図りかねた俺は聞き返した。

「架純なりに隼人君に迷惑をかけないようにって、考えた結論だと思うの。だからその――」

「そんな事……そんな事、思っていないですよ」優子の言葉を遮ると俺は微笑みを見せた。俺の笑みを優子は捉えると「ありがとう」と言って、俺の横を通り過ぎ自宅の門を開けた。

「……あの」俺の声掛けに門を閉め終わる優子の手が止まると俺を見上げた。

「架純は怖いんだと思います。その、手術を受ける事が……だから――」

「……そうね。そうかも知れないわね」噛み締めるように優子が呟いた。

「だったら、どうして――」気持ちが昂り、声を荒げる俺に優子の言葉が割って入った。「もうこれ以上、私達に関わらないで」優子の顔は苦渋に満ちていた。その目には先程までの優しい色はなく、俺を蔑むように視線を送ってくる。

「……お願いだから、もう……」

 それ以上の言葉を交わす事無く、門を閉め終わると優子は一瞥も送らず、玄関扉を開けて、入って行った。立ち去る優子の背中に言葉をかける事が出来ず、ただ立ち尽くす事しか出来なかった。優子の達観したような表情と言葉に、母親としての苦悩ともどかしさを強く感じた。

 二人とも苦しんでいた。聡は自分のせいで妹が苦しむ事になったのだと後悔し、優子は自分の非力さで娘を助ける事が出来ないと悟っていた。俺以上に苦しい月日を架純と共に過ごし、もがいて来た。その上で二人は結論を下して今の生活がある。一見すると、これ以上他人の家庭に首を突っ込むのは余りにも野暮のように思えるが、俺はどうしても腑に落ちない事があった。

 どうして架純は俺に日記を渡したのだろう。

 その答えを直接架純に尋ねて、答えを出すのは簡単だ。だが架純は俺に何も言わず、突然姿を消した。有り触れた答えは俺にも解っている。当然架純の想いは、その中に含まれている事もあるだろう。それだけではないように思えた。そう思えるのは、互いに愛し合っていたからこそ。三年の空白があるにせよ、互いに想い合っていた事実が俺を突き動かしていた。

 その答えを見出すには、架純との思い出深い場所を訪れる必要があった。自宅に戻り、サーフを走らせ鴨川に向かった。夜更けの高速道路を走るも眠気など一切起きなかった。

 数か月前に架純と訪れた思い出の砂浜は、漆黒に包まれていた。砂浜に足を踏み入れると、小波の音と潮の香り。火照った体を冷ます心地良い風が俺を出迎えた。架純と誓い合った場所。架純はあの時、どんな心境で俺を受け入れたのだろうか。

 いずれ訪れるであろう別れの日を、架純はどんな気持ちで迎えたのだろう。

 架純の日記には俺に対する気遣いの言葉で溢れていた。俺が疑問に思う事は日記に書かれていた。そんな表面的な事で、この場所を訪れた訳ではない。架純が日記を渡してきた真相に迫りたかった。

 日記に書かれている事が全てではないと思っていた。

 架純のような相手を気遣う人間が、こんな一方的に別れを切り出すだろうか。そもそも別れの言葉を交わしてもいない。状況が状況なだけに、そんな事を言っていられなかっただけなのかもしれない。

 架純が姿を消したのは、正和が亡くなって間もない頃だった。俺が正和ホームの二階で生活をしていた頃の話。きっと架純は、憔悴しきった俺を気遣って声を掛ける事をしなかったのだろう。だから何も言わずに姿を消したのだろう。日記を結衣に渡して落ち着いたらって結衣に伝えたのだろう。日記を書き始めたのも、こんな日が来る事を想定して始めたんだろう。日記を俺に読ませて、知って欲しかったんだよな、自分の事。心の支えが欲しかったんだろう。心細かったんだよな。これから先、生きていく事が不安で怖くて、しょうがなかったんだよな。

 答えを導き出そうと自問自答を繰り返した。繰り返せば繰り返すほど、どれも架純が求めていた答えのようで、止めどなく涙が溢れ出てきた。

 架純は俺に助けを求めていた。 

 俺という恋人が側にいて欲しかった。恋人という心の拠り所を架純は求めていた。俺に伝える事が相手を気遣う優しさを持つ架純にとって心苦しかった。それは俺に負担をかける事になるから。病気だけではなく、そんな葛藤にも苦しんでいた。

 そうなんだろう、架純?

 涙を拭いもせず、空を仰いだ。夜空には無数の小さな光が点在している。この幻想的な光すら、架純の目には映らないのだろうか。いつか見た、あの鯱の夢。架純も見たというあの夢が、どんな効果があったのだろうか。大切な人に幸せが訪れると夢占いでは書いてあったが、何も幸せなんて起きやしないじゃないか。

 大切な人を失いたくない。

 架純が視力を失った所で、この気持ちに変わりはない。このまま架純との関係を終わらせたくないし、終わらせるつもりもない。架純が側にいる事を望むように、俺も架純には側にいて欲しい。架純を側で支え続ける事を決意した。正和を失った、あの時の絶望と空虚な日々を味わいたくはない。今でも俺は正和の言葉が、ずっと耳に木霊している。

『お前がこれから先の人生を生きていく中で、楽しい事ばかりじゃないだろう。辛い事や苦しい事……時には面倒な事に遭遇する事もあるだろう』

 優子と聡にこの想いを伝えよう。覚悟を見せよう。もしかすると彼等にとって突然の申し出が綺麗事に聞こえ、耳障りが悪いかも知れない。ただ俺の決意は揺ぎ無いものだった。

『その場面に出会った時、お前の価値観で決断を強いられる時がきっとあるはずだ。人間は、何かを失えば、また何かを得る機会がある。でも、失った事実を取り戻す事が出来ない』

 架純と再会を果たす前の俺は、ただ正和の背中を追いかける日々を過ごしていた。その生活に刺激があり、やりがいがあった。でも、それだけだった。やがて生活に物足りなさを覚え始めていた頃に、架純と突然の再会を果たした。

経緯はいろいろあるにせよ、架純が隣に引っ越して短い期間であるものの、共に時間を過ごす中で俺の生活に潤いが訪れた。

 その潤いは俺の価値観を変えた。仕事に対する考え方や人生、人と触れ合う中でその人の見方が様々な角度で見る事が出来始め、共感を覚える事が多くなった。この決断をする事は、これから先の俺の人生に大きな意義を伴う事になる。人生の岐路に立っているような気分に陥った。躊躇う事なく俺はその別れ道を肯定し、架純と人生を共にする事を決意した。それが俺の素直な気持ちだった。

 その決意に至ると俺の心は満たされ始めた。寒風に当たり続けた体は、限界を覚え始めた。サーフの車内に戻るとエアコンを点けて暖を取り始める。日付けが変わった時刻をとっくに過ぎていた。満たされ始めた心と暖風に覆われた体で睡魔が襲ってくる。

「……少し寝るか」

 一度仮眠をとってから帰宅しよう。シードバックを倒し、ゆっくりと体を預けた。瞳を閉じて時間を空けずに俺はゆっくりと眠りに落ちた。


 その正体に気付くまで、時間は要さなかった。

 顔に温もりを感じ、眩しさで目を細めながら寝ぼけ眼でゆっくりと体を起こすと、フロントガラスに映る幻想的な光景に目を奪われた。

 暖色と寒色の二色で彩られた世界に太陽が顔を覗かせている。橙色の光線に覆われた世界に夜明けが訪れた。

「……すげぇ」

 暫くの間、その光景に目を奪われていた。暗転した世界に光が訪れる事がこれほど目を奪われる物なのだと感心した。見とれていると、自然に脳内を駆け巡った映像があった。架純もきっと意識はあるものの、瞳を閉じた状態。つまり俺と同じように眠っている状態に近いのかも知れない。瞳を開け目の前の光景のように夜明けを知らせる光が訪れたら、どれほど架純は喜ぶだろう。

「……夜明け?」

 起きて間もない冴えない頭にも関わらず、脳裏に一つの考えを思いついた。

 それにはもう一つの覚悟を決めなければならなかった。俺の一存で決める事は筋が通らない事であり、周囲の協力が必要だった。だが架純を眠りから覚ます方法はこれしかない。

 そして正和の言葉を思い出す。

『その失う事がお前にとってかけがえのない事ならば、厭わず何としても守れ。男として』

「……祖父ちゃん」

 俺はこの瞬間、二つ目の覚悟を決めた。

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