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『二人のソクラテス』第10話

「それではご契約に向けて重要事項説明書を読み上げます。難しい専門用語など多々ありますが、その都度ご不明点ありましたら仰ってください」


 春菜さんが落ち着いた口調で話すと、辺りの空気が張り詰めた。


 今日は先日案内した村山さんの物件を服部夫婦が購入する事になったので、こうして売買契約を行なっている。


 何が私はただの事務員だ。こんな事務員がいてたまるか。こんなの仕事が出来る不動産売買営業の鑑じゃないか。


 淡々と説明をしながらも服部夫妻から質問があると手元から登記簿謄本を取り出して、権利部の甲区の所有権に関する事項を見せて村山さんが所有者である事を説明したり、用途地域の項目に移ると、都市計画図を見せて契約対象の不動産は第一種低層住居専用地域内であり、三階建て等の十メートルを超える建物は、絶対高さ制限がある為に建てられないなどの説明を分かりやすくして、服部夫婦の理解を得ていた。


 テーブルを挟んで売主である村山さん。向かいに買主である服部夫婦。


 その両者の間に春菜さんが座って説明をする姿は格好良かった。僕は春菜さんの隣で資料を出すアシスタント的なポジションで隣に座っている。


 春菜さんが国家資格である宅地建物取引士を持っている事に先日気付いた。この資格がないと契約時の重要事項説明は行えない。当然、僕のような新人はまだ取得していない。全く、この人には本当に敵わない。


 いつかの偉人が言っていた気がする。人は小さなきっかけがあれば、成長出来ると。

 

 最初はほんの小さな好奇心からだった。親父の背中はいつも見てきた。母さんの親父を支える背中もずっと見てきた。


 憧れの中に期待と不安。容易に想像出来る責任の重さが脳内に無意識に芽生えていたのかも知れないが、今は違う。


 強力な春菜さんが側で支えてくれる。由夏が背中を押してくれた。


 僕もいつか宅建を取って、今の春菜さんのように契約を締結したい。勉強と経験を早く積んで、いつか親父のような男になりたい。


「以上が重要事項説明書の内容となります。何かご不明点等はありましたか?」


 春菜さんが服部夫婦に問いかけると、二人は「いいえ、大丈夫です」と答え、村山さんも同様に首を縦に振った。


「それでは次に売買契約書に移らせて頂きます。星哉さん、お願い出来ますか?」


 春菜さんに頷くと売買契約書を取りに席を離れた。自身のデスクに向かう道中、軽い目眩を覚えた。


 足がもつれ、カウンターに手を伸ばす。


「だっ、大丈夫?」


 物音で気付いたのか、由夏が駆け寄って来た。


「大丈夫。ちょっと足をぶつけただけだから」


 ほんの一瞬だった。目眩が起きてカウンターに手を伸ばした間に脳裏に浮かんだ映像。


 あの映像は両親が世界旅行に行く前に見送った映像。


 何故、この間際に浮かんできたのか。呼吸を整えてからデスクに戻り、書類を手にすると接客ブースに戻った。 

 春菜さんに売買契約書を渡すと不安そうな表情を見せたので、笑顔を向けた。


 村山さん、服部夫婦に配布すると春菜さんが契約書を読み上げる。

 

 売買に関わるようになってから、日々の生活に色味が出てきた。


 無色だった日々の生活に彩りが生まれ、息苦しい日々に酸素が送り込まれて視界が広がり、新しい生命が宿ったように活力が生まれた。

 

 それと同時期に先程の目眩や軽い頭痛が襲ってきた。一回一回は大した事ではない。


 時には頭痛薬を服用した時もあったが、必ず目眩や頭痛が起こった後に脳裏に浮かぶ映像が奇妙だった。


 最初は由夏と過ごした河川敷で哲学書を読んでいる映像。次に由夏が自宅に来て両親と四人で食事を摂っている映像。


 一種のフラッシュバックのようなものなのではと割り切れば大した事ではない。それでも不安はあった。


 何故? どうして? こんな事は今までなかった。いや、本当になかったのか。


「以上で売買契約書のご説明は終わります。最後に付帯設備表と告知書の読み合わせに移らせて頂きます」


 付帯設備は物件に付随する設備があるかどうかを示す表。キッチンはついているか。カーテンレールはあるかなど設備に関する書類。


 告知書は主に事実関係を売主から買主に継承する書類で、境界はあるかや木々などの越境はしていないかを取り交わす。


 これらの書類はトラブル防止の観点から取り交わす書類となる。いずれも僕と春菜さんで事前に現地確認や村山さんに聞き取りを行なって問題ない。

 

 書類の取り交わしが終わると、ついに署名押印に移る。服部さんのご主人が村山さんに手付金の五十万を渡す。


 売買契約の場はもっと厳かで張り詰めた緊張が漂うと思っていたけれど今回の契約はそうではなかった。


 村山さんの陽気なキャラクターと春菜さんの淀みない進行。そして服部夫妻の親しみやすい人柄が、この居心地良い空間を生んでいるんだ。

 

 いつか春菜さんが言っていた。不動産の売買はご縁とタイミングが全てだと。最初はなんて在り来りなのだろうとさほど響かなかった。


 でも今は、そうは思わない。村山さんが売り出そうとしたタイミングで服部夫婦が店に来た。


 それを春菜さんが二人を繋げて、今日こうして契約を迎えた。これをご縁とタイミングと言わずになんと言うのだろう。


 無事何事もなく契約が終わった。所要時間は概ね二時間。十三時から始まり、今は十五時を過ぎていた。濃密な時間だった。


 僕は大した事はしていないけれど、初めての経験に神経を擦り減らした。最後に村山さんと服部夫婦を見送る。両者の背中を見えなくなるまで見送った所で肩を下ろした。


「お疲れ様でした、星哉さん」


 春菜さんが握手を求めて手を差し出してきた。春菜さんには本当に助けられた。この人がいなかったら僕は何も出来なかった。


「こちらこそありがとうございました」


 春菜さんの手を握る。こんなか細い手に何度助けられただろう。


「どうでしたか? 初めての売買契約は」

 店内に戻り、テーブルに広げられた契約関係書類を整理しながら、契約の余韻に浸る。


 あっという間と言えばあっという間に終わった気がした。


「なんですかね。すごい場にいた気がしました。服部さんにしてみれば一生に一度の貴重な買い物の場にいた訳ですから」


 人生の中でそうない場に携わった事。余韻に浸りながらも責任やプレッシャーが追いかけて襲ってきた。


 急に白けたような、寒い感覚。


「それが不動産売買ですよね。お客様お一人お一人の大切な時間と大金を動かす訳ですから、責任は重大です。中途半端な事はしてはいけない。誠心誠意、プロとして自覚を持ちながら仕事をしなければ」


 今日の契約まで脇目も振らずに突っ走ってきた。春菜さんに指示を仰ぎ、自分が理解出来ない所は自分の目で納得いくまで確認した。


 だから考える暇がなかった。夢中になってここまできたのに、急に立ち止まって辺りを見渡せば、自分の知らない世界に来てしまった恐怖や後悔。


 はっきり言ってしまえば、僕は怖じけていた。


「私がいます。途中で見捨てたりしませんから、大船に乗った気でいてください」


 僕の心情が顔に出ていたのだろうか。春菜さんは僕の目を見てはっきりと言い切った。


「この後ですが、服部さんの住宅ローンの本承認が下り次第、村山さんには司法書士とうち合わせしてもらって登記に関する必要書類等準備して頂きます。その後は服部さんの金消契約と呼ばれる銀行と融資契約、リフォームの打ち合わせして決済って感じですね。スケジュールはだいぶ余裕がありそうです」


「……僕はどうしたらいいですか?」 


「そうですね。一先ず、服部さんの本承認の連絡は来週中には出ると思うので、それまでに司法書士に契約した旨の報告と火災保険の見積もりの手配をお願い出来ますか?」


 正直に言えば、未経験な所があるので、全体の動きが見えない分、春菜さんの当然のように話す事についていけない所があった。


 別に愚痴を溢したい訳じゃなくて、単に自分が理解出来ない事が悔しかっただけ。


 それだけなのに春菜さんは「申し訳ないです。出しゃばった事を言いました」と謝ってきた。


「少し打ち合わせしませんか? 今後の段取りをもう一度確認しましょう」


「ありがとうございます……でも、今日はどうします? 明日にしませんか? もう店閉めてもいいですよね?」


 時計を確認すると、十五時三十分を回っていた。外はまだ明るく、賑やかだった。


 春菜さんも僕の意図に気付いたようで、はっとした後に少し寂しそうな表情を浮かべると「……そうですね。今日は止めときましょう。


 急ぎでもないですから」と言い残してデスクに戻っていった。


 春菜さんには悪い事を言ったけれど分かってくれたようで良かった。


 入れ替わるように由夏が配膳したお茶やテーブル拭きにブースに入ってくる。


「お疲れ様、疲れたでしょ?」


 由夏は数日前から、どことなく元気がない。自意識過剰かもしれないが、僕がこの契約に時間を割いて、仕事に集中していただけに由夏とはここ数日、以前のように頻繁に会話をする機会がなかった。


 かといって仲が悪くなったとか、互いに避けたとか、そういう感じでもない。妙な距離感を互いに保っていた気がする。


「なんだか一段落したって感じかな」


「星哉くん、いい顔になったよ。なんだか大人になったっていうか、別人みたい」


「……そうか。別に整形してないけど」


 頬に手を当てて、惚けてみると「そういう事じゃない」と由夏の容赦ないツッコミが飛んで来た。


 肩に衝撃が走ると大袈裟に痛がり「もう、知らないから」と言い残して由夏が去って行った。

 

 由夏も変わった気がした。子供っぽかった由夏が落ち着きを見せながら、仕事を淡々とこなして気遣いを見せる。


 天真爛漫を絵に描いた印象を持っていたが、生活を共にする中で日々彼女に対する印象が変わっていった。


 由夏も僕と同様に何か心境の変化があったのかもしれない。当然と言えば当然の変化に違いない。


「今日はもう店じまいだ」


 表に出て店のシャッターを閉めようと手をかけると、約一ヶ月前に向かいに立っていた由夏の事を思い出した。由夏との再会は突然だった。


 あれから色々とあった。由夏が店で働くようになり、斉藤さんとの出会いから、由夏が迷い人だと宣言したチエさん。


 結局、いまだに由夏を呼び寄せた人物の事はわからずのまま。服部夫婦が来て、村山さんと縁を結ぶ春菜さん。


 そして今日の売買契約。

 

 由夏と再会してから目まぐるしい日々を過ごしてきた。両親が旅行から帰ってきたら、胸を張って自慢したい。僕はこれだけの事をあなた達がいない間に行ったと。


 両親はなんて言うだろう。頭を撫でて親父は褒めてくれるだろうか。母親は嬉しそうに涙を流してくれるだろうか。

 

 シャッターを閉めて空を見上げると、雲一つない青空が僕を出迎えた。その空に一筋の光を見たような気がした。


 流れ星にしては、まだ明るい。なんの前兆なのか、妙な胸騒ぎが起きた。

 

 あれだけ僕と由夏は、死に対する達観したような感情を抱えていたにも関わらず、今の僕は由夏の死を知った時に、戸惑いを隠せなかった。


 死は決して平等ではない事。突然、別れはやってくる事。虚しさや怖さ、鬱屈した気分は未だに解消されていない。

 

 次第に沸き起こる感情を迎え入れると、下ろしたシャッターに拳を叩きつけた。


 鳴り響く轟音に周囲の目は気になたない。耳にも入らない。痛みも感じない。頭に血が登り、体は火照り出す。


 涙は零れ落ち、崩れるようにその場に突っ伏した。嗚咽を繰り返し、泣きじゃくる僕は周りの目には、どう写っているだろうか。


 無様に見えているのか。奇異な視線を向けてきているのか。心配の目を向けて声をかけようと躊躇する者はいるのだろうか。


 そんな事、全てどうでもよかった。


 ただ一つだけ、たった一つだけ、そんな事を気にした所で変えられない事実が僕をこれだけ悲しませ、世を憂い、非力な僕はまた後悔した。


 お帰りな祭は毎年、七月の中旬から八月中旬のお盆明けまで行う。


 最後の日には盛大にお祭りを行い、霊魂を送り出す事が通例になっていた。


 迷い人が迷子にならないように送り出し、また来年も帰って来れるように願いを込めて。

 

 そして今夜、そのお帰りな祭が盛大に行われる。


 由夏との別れは近かった。

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