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『眠れる海の乙女』最終話

 諦めた事。やりたかった事。出来なかった事。

 自分の人生が大きく変わる事が、こんなに辛い事だと最初は思わなかった。ましてや未成年の多感な時期にそんな経験をすれば猶更の事。

 一度だけ人生をリタイアしようと脳裏に過った事があった。でもそれは弱い人間がする事。生き続ける事の方がもっと辛い。投げ出す事は簡単な事。リタイアする事の恐怖に打ち勝つだけの決意があれば簡単な事で何事も行い続ける事の方が大変。

 それに私にとって弱いという事が、どれだけ私にとって過敏な言葉か、自分が一番知っている。だから私は生き続けた。

 言葉ではいくらでも強く言える。表面上はいくら取り繕っても人間は完璧な生き物じゃない。そもそも動物である人間に完璧な事を求める事が可笑しなこと。

 だから何度も泣いた。何度も心が折れた。何度も自身を罵倒した。

 負の感情が沸いて来る度に、正の感情にしがみつきたくなった。私にとって正の感情を湧き起こす事は簡単だった。

 隼人だった。

 一見すれば病的な考えなのかもしれない。でも私にとって防衛本能の行為であり、生き続ける事に必死だった。隼人との思い出や経験を想起する事で正の感情が生まれ、より物事を前向きに捉える事が出来た。

 宣告された事実。どうする事も出来ない壁。自分がいくら強くなった所で、結局周囲に迷惑がかかってしまっている現実。未成年の未熟な精神と世間の目に恐怖を覚え始める成人を迎えた頃に、症状が顕著に現れた。これから先の人生を生きていく為に隼人と会う事が希望であり渇望だった。人間としての本能より一人の女性としての感情が勝っていた。

 隼人には私の負の感情を感染させたくなかった。でも隼人に触れる度に心が満たされていった。理想と現実の狭間に、私は苦しんだ。月日が経つ度に現実が差し迫ってくる恐怖を感じる。次第に理想が現実を追い越していった。

 これ以上隼人に負の感情を背負わせたくないと思い、隼人の元から離れようと私は決めた。この世界で生きていく事を強く決心した。強くなるには目の前の敵から目を背けず、現実を受け入れる事だと考えた。その中で希望と救いを求め、彷徨いながら生きていく。

 他人と比べてばかりの人生だった私に別れを告げ、家族の支えを受けながら自分に出来る事を少しずつ見つけていった。その中では小さな楽しみや発見があると、次第に価値観が変わっていった。この生活はこれで面白い。この世界でしか味わう事の出来ない心理や道徳のような感覚に触れながら生きていた。

 そんな時に隼人は、私の前に再び現れた。

 決して忘れていた訳ではなかった。素直に言えば、忘れようと無意識にしていたのかも知れない。現実に出来ない事を空想すれば喪失感に駆られ、そこには絶望が待っているだけ。無駄な欲望に駆られるより、着実に一歩ずつ自身の成長に繋がる行動を過ごした方が身の為になると考えていた。そんな状況の最中にいるのに隼人は私を必要として、手を差し伸べてくれた。それも過大な犠牲を払って。

 隼人の言葉一つ一つが、私の世界観をゆっくりと変えていった。

 強くなると決めてから、それに固執していた時間が余りにも長過ぎたような気がする。強さには様々な種類があると気付いた。私が望んでいた強さは、周囲が望んでいる事ではなかった。私は今まで強さの意味を履き違えていたのかも知れないと。

 周囲が望んでいたのは正直になる事だった。素直になれる強さ。優しさの強さだった。形振り構わず、自身が強くなれば他人に気を払う事が出来る。誰かを助けるだけの強さがあれば良いと思っていた。でもそれを周囲は望まず、今ではただ突っ走っていただけなのかも知れない。

 それを気付かせてくれたのは隼人だった。

 隼人のおかげで手術を受ける事になった時、私は既に怖くなかった。手術が失敗して再び絶望を味わう怖さが大きかった私が、どうしてあの時怖くなかったのか不思議だった。当時はわからなかったけれど今ならわかる。私は当時、未来の事ばかりを想像していたからだ。

 視力が戻ったら何をしよう。何が出来るだろう。周囲の心配を他所に私は心躍る気持ちだった。

 それだけ隼人が送ってくれたあの時の動画の中の言葉は私に希望をくれた。隼人の器の大きさと懐の深さに私は酔いしれていたんだ。

 手術が成功して隼人の顔を再び見る事が出来た時、本当に嬉しかった。見えるようになってから、私の中で価値観や人生観が再び変わるようになった。生きていれば価値観は変わっていく。時間や経験を積み重なれば、それは当然の出来事。それは人の数だけ存在し、立場や状況が異なれば猶更の事。次第に私は欲深くなった。

 他人に必要とされる人間になりたいと思うようになった。

 私が隼人にプロポーズされた日、隼人には内緒にしていたけれど私は夢を見た。海が近くの高台の戸建に隼人と私、そこには私達の子供が二人いた。男の子と女の子。小学生低学年くらいの子達に翻弄されている父親である隼人が、仲良く居間で子供達と遊んでいる。私は台所に立って昼食を作っている。何を作っていただろう、キッチンから海が見渡せて広々した空間だった。

 そんな夢を見た後に、隼人からプロポーズをされた。絵空事のような気もするけれど、とても微笑ましくて幸せな気分になった。次第に夢で見たような生活を未来に思い描いた。

 愛する人の側にいる事が出来て、その人を支え続ける事。愛する人に必要とされるような女性になりたい。誰かに必要とされる強さと隼人を守る事が出来る強さが欲しい。それが今の私の強さの定義だった。

 長い人生の中では、多くの人と様々な出会いがある。その中でそんな事を思える人と出会える保証もなければ、そんな人と出合える確率は限りなく低い。人間が様々な状況や形で社会を支え助け合う中で、苦しい事や辛い事も沢山ある。誰にも言えない悩みや秘密を胸の奥底に仕舞い込みながら、多くの人達が生きている。

 私がかつて未来を想像し希望を持ったように、それは生きていく活力になる。だけど時として希望は絶望にあっという間に変わる時がある。大小関わらず、きっかけがあれば状況は一変するもの。だけど、どんな時も手を差し伸べて、いつも味方でいてくれて側で支えてくれる人と出会える事が出来たら、自分の人生がどれだけ豊かになり心強くなるだろう。

 それが私にとって、隼人だった。そう思える程の沢山の愛情を隼人は今まで私に注いでくれた。隼人が私の心の拠り所であり、私の全てだった。

 だから今度は、私の番だと思った。

 隼人には今まで沢山助けてもらってきた。だから今度は、私が隼人を助ける番。仕事の事もそう。会社を手伝って、社長夫人として恥じない行動をして隼人を支える。でも時として、隼人の側から一歩下がり見守る事もする。隼人が成長する為には、それが必要な時もあるだろうから。隼人を尊重して、私が隼人の心の拠り所になる。夢で見たように子供が出来たら、パパは昔こんな事をしてくれたんだよと私を助けてくれた話をして、父親の偉大さを伝える。子供達にとって素敵な父親でいて欲しいから。

 子供達が大きくなって一人暮らしを始めたら、二人で仲良く手を繋いで公園を散歩したり、他愛もない話をして過ごしたい。一緒に笑ってゆっくり時を刻みたい。

 そして最後は一緒のお墓に入って、隼人を永久に愛し続けたい。

隼人と過ごすこの先の未来は、何が待っているのだろう。隼人と過ごす未来が、楽しみで仕方がない。この先この目に映る全てを、隼人と一緒に見てみたい。

 内田隼人と出合えて、本当に良かった。

 

          〈了〉


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