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『眠れる海の乙女』第11話

「症状はかなり早く進行しています。今後は時間を空けずに架純ちゃんの目はもう……」

 重苦しい空気を切り裂いた吉岡の言葉だったが、空気をより一層重くした。隣に座る母の優子からは溜息が漏れて聞こえる。私の目は、既に二人の表情を窺い知る事が出来なかった。

「ここまで数値が下がると先週行った検査結果の時よりも、急激に視力が衰えてきます。個人差はありますが、急激に症状が悪化するのが、この病気の大きな特徴です。どうだい、架純ちゃん? これ何本に見えるかな?」

 吉岡は恐らく私の顔の前に指を立てたのだろう。吉岡と対峙している距離は、そう遠くないはず。恐らく一メートルくらいだろうか。その僅かな距離でも私の目には視界全体に薄霧がかかり、判別がつかなかった。

「……だめ、先生。わからない」視野が狭まっていてよく見えなかった。隼人と花火を見に行ってから、急激に症状は悪化したように思える。

「……架純」優子が私の肩にそっと手を落とす。優子の温もりが伝わってきた。

 上げていた手を力なく下ろし、パソコンのキーボードを叩く音が力強く聞こえてきた。吉岡のやるせない感情が私に届く。

「今まで投与していた薬は、あくまでも病気の進行を遅らせる為のものでした。ですが架純ちゃんの目はもう……」吉岡の声に反応して私が「あぁ、もう先生のイケメンが拝めなくなるのか」と天を仰いだ。私の思惑とは裏腹に二人から言葉は返って来なかった。

「先生? 最近よく聞く、再生医療ってどうなんですか? 架純の病気には……」

 沈黙を破った優子が期待を持って吉岡に尋ねる。

「それについては私も考えています。学会や各研究所にも話は挙がっていますが、日本ではまだ実例が……アメリカでは研究が進んでいて、新薬開発なども進んでいます」

「だったら――」

「ですが、お母さん。海外での手術には莫大な費用と時間を要します」

 私にもそれはわかっていた。優子と聡には、これ以上迷惑はかけられない。吉岡の言葉に優子は言葉を返せない様子。

「現実的なお話になりますが、今後は白杖使用による歩行訓練をして頂いた方がよろしいかと思います。当院には支援ホームがありますので、そちらで今後は訓練なさってください。また白杖を使用するには、障碍者手帳の携帯義務があります。役所に申請する際に診断書が必要になりますのではそれは私が作成――」

「……どうしてそんなに淡々と話す事が出来るんですか?」優子が俯きながら呟いた。だが吉岡はそれに応えなかった。私の目には映っていないが、吉岡の苦虫を噛み締める顔が容易に想像出来る。

「先生は……先生は架純の事を何とも――」

 矢継ぎ早に話す吉岡に耐えかねた優子が激昂した。すると一瞬の間を設け吉岡が「そんな訳ないでしょう」と反論した。吉岡の荒々しい声を初めて聞いた私は、思わず肩を揺らした。

「……失礼しました」吉岡が取り乱した自分を恥じる。

「……こちらこそ、すみません。感情的になってしまって。ただ、どうしても架純が、自分の娘が、障碍者って括りになってしまう事が受け入れられなくて。だって元気に産まれてきたんですよ? どうして、こんなまだ若いのに……どうして……どうしてって」

 心情を吐露し、啜り泣く優子。太刀打ち出来ない現実が目の前に立ち塞がる。隣で泣き崩れる優子の様子は、まるで自分を見ているようだった。次第に私の心は段々と冷静になっていく。それは、とても複雑な心境だった。優子の表情がはっきりと見えていたら、また違ったのかも知れない。

「私だって同じです。実は架純ちゃんと同い年の娘がいまして……もし自分の娘がって考えた事もありました。だからこそ悔しいんです。症状を遅らせる事しか出来ない不甲斐なさに腹が立ちます」

 ここまで自分が病気と向き合えたのは、吉岡の支えが大きいとつくづく思った。家族に見せれば心配する顔を、吉岡には向けられた。今まで尽力してくれたと思う。医学の進歩が、私の病に追いつかなかっただけの事。吉岡も優子も誰も悪くない。こうして諦観した先人達と同じように、私も決断をするだけ。私の答え一つで、二人の肩の荷は軽くなるに違いない。

 だから……。

「私は大丈夫だよ? 最初からわかっていた事だしね」

「……架純ちゃん」力ない声を発する吉岡の声。

「……架純」気丈に話す娘をやるせない想いでいる優子。

「それで今度は、どうした方が良いの? 先生、もう一度教えて?」

 その後、吉岡の案内で病院の敷地内にある支援ホームを見て回った。優子と一緒に諸々の手続きや吉岡が作成した診断書を受け取り、病院を出る。歩行が危なげなくなった私を見兼ねて、優子の腕にしがみつきながら優子が運転する軽自動車に乗って家路に帰った。助手席の車窓から流れるおぼろげな景色を見て物思いにふけながら、私は過去を想起した。


          ※※※


 私が初めて違和感を覚えたのは三年前の事だった。隼人と別れ、父親の克典の転勤で家族全員で茨城県土浦市に引っ越す事になった頃。慣れない環境と慣れない人付き合いが当時の私を刺激したが、公立高校に編入した私を同級生達は受け入れた。

 ある日、同級生達と映画館に行く事になり、有名な若手俳優が主演している恋愛映画を観ていた時の事だった。私は隣のドリンクホルダーに置いてあるカップを取り損ねた。幾度か手を伸ばしたが距離感が掴めずにいると、隣に座る同級生が不審に思い、私の代わりにその同級生が渡してくれた。それから深夜に起きて水を飲みに行こうとベッドから立ち上がった時も足元が覚束なかった。

 その出来事を優子に相談すると、翌日に近所の診療所に赴き検査をした。すると医師は、夜盲と診断結果を伝えた。ビタミン不足を指摘した為、ビタミン剤を処方されなんとなく飲み続けた。幾分効果が現れたようにも思えたが、同時にそれとは違う違和感を覚え始めてもいた。

 丁度その頃、克典に変化が起きた。克典が勤めている大手食品会社が新しく生産工場を建設した為、克典は工場の責任者となった。経緯としてはそうなのだが、人知れず重責を感じていたのだろう。社宅に引っ越してきて三ヶ月が経った頃から克典は変わった。千葉県にいた頃には飲まなかった酒を飲み出した。泥酔になって帰ってくる事もあった。母の優子はそれを咎める事もせず、克典の介抱をした。次第に泥酔して帰宅する頻度は多くなり、兄の聡がそれを見て放った一言が全ての始まりだった。

『情けない』

 克典は聡が向けた一言で、聡を殴り出した。成人しているとはいえ、細身の聡には恰幅の良い克典に抵抗する事が出来なかった。優子と私が止めようとするも、女が男に力で敵うはずもなく投げ飛ばされた。やがて矛先は、優子と私に向かっていった。

 それが一度だけではなく連日続いた。決まって克典は泥酔状態で帰宅してきて、克典が帰って来るまでに私達は、夕食を済ませる。聡と私は克典が帰ってくる頃には自室に籠るようになった。時に聞こえてくる優子の悲鳴に聡は、幾度も自室から飛び出し克典に立ち向かっていった。

 私は克典の一変した風貌に慄き、両耳を塞いで蹲っている事しか出来なかった。次第に私は心を閉ざす事を覚えた。生きていれば、人間は変わっていく事を知った。思い出だけは変わる事はなく、それを慈しみ、尊いものとして崇めた。

 鯱のキーホルダー。

 幾度も手に取り、瞳を閉じて念じるように想起させた。その時間だけが変わる事がなく、目の前で起きる現実から解放されるように思えた。今ではもう色褪せているキーホルダー。

 現実から目を背けすぎたのかも知れない。そう思ったのは、高校で授業を受けている時だった。教師が書く黒板の文字……いや、視界が狭まって見え始めた。幕が下りたように黒板全体と壁に掛けてある時計すら上半分が見えなくなっている。突然の出来事に一度、目を閉じて開き直した。すると先程より視野が広まったような気がした。

 そんな出来事が、一定の期間を設けて症状として現れ始め、次第に怖くなった私は、疲労困憊の優子に相談をした。だが克典の事で疲れ切っている優子は聞く耳を持たなかった。聡は新しく出来た友人達と遊び呆けて、帰宅する事が少なくなっている。家族内で一人孤独を覚え始めた頃。一転してある日を境に、家族は少しずつ以前のような温かい家庭を取り戻していった。

 克典の仕事が波に乗ってきたようで、以前のように暴力を奮う事はなくなった。酒を飲んで帰ってくるような事もなく、優子は安堵の表情を見せた。聡は一度家に戻ってきた時、そんな代わり様の克典を見て、言葉には出さずとも安心しているのが見て取れた。家族が一堂に会した時、克典は私達三人に頭を下げた。部下達との蟠りや下請けとの行き違い、本社からの圧力を理由に挙げた。要は仕事が上手くいかなくなって、酒に溺れたという事だ。今後は二度としない。克典はそう誓った。私は克典が滔々と話す言葉を冷めた目で聞いていた。私が送った冷たい視線に気付いた克典は、視線を合わせようとしなかった。

 私はあの時、克典の言葉を信じられなかった。克典の酒に溺れ屈し、暴力で自身の力を見せつける行為には悪しか存在しなかった。そんな醜態を見せる程、弱い人間にはなりたくない。その時の私は、強い人間になろうと決心した。例え苦しい事が起きても、例え物事が上手くいかないからといって不貞腐れず、前を向いて生きていこうと。

 高校を卒業して、服飾の専門学校に通うようになった時だった。デザイナーの道を志し、二十歳を迎えようと勉学に励んでいた頃。その日の夜は珍しく優子も聡も帰宅が遅く、私と克典だけだった。食卓には私が作ったカレーを囲い、克典と食している時だった。私は食事を早く済ませ、自室に戻ろうとしていた。その時の私には何となくわかっていた。克典は口には出さないが、仕事が上手くいっていないという事。雰囲気や表情でわかった。以前のようなあの忌々しい出来事が近々、再び訪れる予感がしていた。

「……情けないって思っているんだろう?」食事を終えて立ち上がろうとした時、不意に父親が口にした。今思えば、その予感は当たっていたんだ。

「忘れないぞ。お前があの時俺に向けた、あの目を」

 克典は突然立ち上がり私に近寄った。身の危険を感じるも、食器を手に取っている私には身構える時間も、その場から逃げ出す時間もなかった。目の前に立つ克典の眼光鋭い視線を真正面から受けた私は、恐怖で立ち竦み、戦慄く体を動かす事が出来なかった。

 右前頭部を殴られてからの記憶は、断片的だった。最初の克典の一撃で私が倒れてから、優子や聡が帰って来るまでの間、克典に馬乗りの状態で一方的に殴られていたらしい。意識が朦朧とする中、私は隼人と過ごした、あの楽しかった一時に想いを馳せていた。

「……何故、笑っている?」

 意識が朦朧とする中、確かに克典はそう言った。私は克典に殴られながら微笑んていたようだ。あの時の事は、克典が激昂した事を映像として記憶の片隅に残っている。

 その一件を機に、優子と聡、そして私は克典の元を離れ、千葉県市原市にある優子の実家に戻った。法律的に克典と赤の他人になり、新しい人生を過ごそうとした時、畳み掛けるように私に病の魔の手が迫っていた。優子に内緒で訪れていた病院は、引っ越してしまい訪れる事は難しい。不安から解放されたばかりの優子や聡に、これ以上刺激を与えたくなかった私は、一人で県内随一の千葉市稲毛区にある総合病院を訪れた。その時に出合ったのが吉岡だった。

「信号の点滅が赤なのか、黄色なのかわかりづらい時があって……」

 千葉県に引っ越して来てからの症状だった。それ以外にも、携帯の充電ランプの色の変化がわからなくなる時があった。

「以前に他の病院で診察した事は? あと過去に他に症状として現れた事は?」

 吐露した言葉を聞いて、吉岡の表情は一変した。深刻な表情を浮かべる吉岡の顔色を見て、自分の身に起きている事が特別な事だと再認識した。私は過去に起きた症状を、包み隠さず話した。聞き終えた吉岡が「一先ず、検査をしましょう」と立ち上がり、私を検査室に案内した。眼底検査から始まり、幾つもの検査を強いられた。以前の病院では行わなかった類の検査に戸惑いを覚えながらも検査を終え、待合室で待っていると看護師から声がかかり、吉岡のいる診療室に案内された。

「……詳細については検査結果が出るまで、申し上げられません。来週、御両親と一緒にお越し頂けますか?」

 その言葉で大方の察しがついた。やはり私の身に起きている事は、特別な事なのだ。優子に話す事は心苦しかったが、仕方のない様に思えた。今まで不安を抱えていた事を、はっきりさせたい。優子は私が話す言葉を噛み締めるように聞いた後、私を抱きしめて一人で抱え込ませてすまないと詫びた。

 そして翌週に優子と吉岡を訪れた時だった。それは、初めて自身の病と向き合う事を決意した時でもあり、病名がはっきりした時でもあった。

「……ミッドナイト?」吉岡が話した病名を鸚鵡返しする優子。

「……はい。この病気は先天性と後天性で分かれており、主な症状は夜妄。つまり暗い場所にある物等が見えづらくなる事。次に文字の通り、視野が中心に向かって狭まってくる状態の視野狭窄。そして、色覚異常です。赤が緑に、橙色が黄緑に見える等、型は様々です。架純さんの場合、話を伺うと後天性の可能性が高いかと」

 その時の私には、吉岡の力ない様子が気になっていた。

「……治るんですか、先生?」率直な質問を投げかけた。すると吉岡は、私と向き合う形で座り直す。

「この病気は厚生労働省で指定難病とされています。研究はされているものの、はっきりとした原因は解明されておりません。諸説ありますが、過大なストレスが視神経を圧迫して網膜に異常をきたすと言われておりますが、未だ根本的な治療法は解明されていない事が現状です」

 吉岡の声が部屋に響いた後、静寂が三人を支配した。自分の身に起きている事にも関わらず、私はまるで他人に起きた出来事のように吉岡の話を聞いていた。実感もなく、治療が困難だと宣言されたのに感傷に浸る事もなかった。

「……うそよ……そんなの」優子が顔を俯かせ呟いた。「どうして……どうして。嘘に決まってるわ」咽び泣く優子は、吉岡の誤診を指摘した。自分の娘にそんな事が起きる訳がないと。数年前に夜妄と診断され、ビタミン剤を処方された事。話を終えて、再び声を詰まらせて泣く優子に、吉岡は言葉を投げかけた。

「この病気は症状が発症する時が疎らで、なかなか気付き難い病気です。大きな特徴として、進行性の病であるものの、発症してから見えなくなるまで三年から五年と言われています。検査結果から推測すると、架純さんが発症したのはその頃かと。個人差はありますが、架純さんの目が見えなくなるまで一年は……」

 項垂れる吉岡。咽び泣く優子。二人を見て自分を鼓舞した。過酷な現実を見せられ、本来だったら落ち込む場面だと解っている。一年の間に視力を失うと宣告されたのだから。でもそれは、仕方のない事。それを受け入れて、今後どうしていくかが大事だと私は考えた。あの男のような、弱い人間にはなりたくないから。

「お母さん……先生はちゃんと検査してくれたよ? 他の先生はここまで検査してくれなかったし、先生は間違っていないと思う」

「……架純」涙を拭い、顔を上げる優子。その目には愁いと同情が入り混じっているように見えた。

「ねぇ、先生? その一年って、遅らせる事は出来ないの?」私が尋ねると吉岡は少し考える素振りを見せた後に口を開いた。

「病気の進行を確実に遅らせるという証拠はないけど、副作用がなくて予防する薬はあるよ?」

「そっか……じゃあ、それを飲み続ければ、一年持つかも知れないって事だよね?」

「可能性が全くないって訳ではないね」吉岡の何か聞きたげな様子に、私は微笑みを返した。優子の不安を他所に、吉岡に今後の治療に関する話を尋ねた。それは、定期的な検査と進行を遅らせる薬で様子を見る事だった。

 病院を出て、優子が頑なにセカンドオピニオンを勧めてきた。後日、優子が調べた都内の病院を優子と訪れるも、吉岡と同じ診断結果だった。その結果でようやく優子は、娘の目を侵す病と向き合う事に割り切れた様子だった。夕食を兄の聡と三人で囲った日に、優子から聡に私の病を話した。聡は突然の妹に降りかかる病の事に、目を大きくして優子の話を聞き入れた。普段から口数の少ない聡は、その日から私の事を気遣うようになった。兄の新しい一面を見て心温かくなった私だったが、少々度を越えた事まで気遣う聡に時々、嫌気が差してしまう。それでも以前より明るく前向きに過ごせる日々を嬉しく思った。

 だが一人になり、症状が現れた時は泣き叫びたくなる衝動に駆られた。

 家族の前では気丈に振る舞うも、一年の間に視力を失う怖さと人生が一変する残酷さに怯えた。ある日突然、明日から全く異なった一日を過ごす事に恐れを抱き、どうしてこんな事が自身の身に訪れるのだろうと絶望を繰り返した。誰もいない所で一人頭を抱え、この世界から消えていなくなろうと考えた事もあった。

 そんな時にいつも奮い立たせたのは、鯱のキーホルダーだった。吉岡から病名を宣告された時からずっと考えていた。残された一年をどう過ごすかって。

 死ぬ訳ではない。それでも見えなくなれば、当たり前に出来た事が当たり前でなくなる。見えるってそういう事だと思う。出来る事、やっておきたい事。先ずはそこから始めようと思った。

 真っ先に浮かんだ事は隼人の事だった。経緯はあるにせよ、こうして千葉県に帰ってきた事だし、隼人に会いたかった。三年振りの隼人は一体どんな顔をしているだろう。連絡を取ってみたが繋がらなかった。SNSを通じても反応がない。何かあったのだろうか。もしかして、私の事を忘れてしまった? そんな不安を抱いた。それでも私は隼人に直接会いに行った。

 隼人の実家がある市原市までは内房線と外房線を乗り継いで、それほど遠くはない。翌土曜日に訪れると、隼人の妹の環奈が私を出迎えた。私が最後に環奈と会ったのは環奈が中学生だったが、今では高校生だという。久しぶりの再会の挨拶を済ませ、隼人の居場所を尋ねると祖父の不動産会社で働いていると話した。

 驚きを隠せずにいると環奈が「今から行く?」と提案をしてきた。場所を尋ねると内房線を乗り継いで一時間かからない場所だった。環奈は学校が休みで暇を持て余していると話す。環奈は隼人と私の関係を知っている。にやける顔を見せる環奈。隼人に会いたい気持ちと私が突然訪れた所で不審がられると考え、環奈と一緒に正和ホームを訪れた。

 駅を降りると初めて訪れる地域に新鮮さを覚え、気分が高鳴った。緑力しく立ち並ぶ街路樹を見て、今日は発症していないと気付く。街路樹を見上げている私に、先を歩く環奈が不思議そうに見つめている事に気付くと私は環奈の後を追った。

 正和ホームの入口まで辿り着くと、入口前で一度立ち止まった。不思議そうに見つめる環奈を尻目に捉えるも、三年振りの再会に高鳴る鼓動を無理やり押さえつけながら、一呼吸ついてから決意すると店の中に入った。

 出迎えた結衣に、環奈が私を紹介した。話を聞くと、隼人は都内の江戸川区まで外出をしている為、夕方まで戻って来ないとの事だった。私が落胆を見せた頃に、正和と小百合が現れた。正和と小百合は孫の環奈を見つけると、嬉々とした表情を浮かべた。環奈との話を済ませた正和が「こちらの方は?」と結衣に尋ねた。今度は結衣が間に入り、私を正和と小百合に紹介した。話の途中、環奈が「お兄ちゃんの元彼女だよ」と補足説明をし出すと、慌てる私を見て何か腑に落ちた様子を結衣は見せた。

 すると結衣が「まだ時間ある? 良かったら、お茶しない?」と私を商談テーブルに案内した。そこから結衣とガールズトークを始めた。正和と小百合、そして環奈は二階に上がっていった。結衣は気さくで、話しやすい空気を作ってくれた。それに甘え隼人との馴れ初めなど包み隠さず話してしまった。結衣も結衣で、隼人が正和ホームに入社した経緯や正和と小百合との関係を話した。

「へぇー、隼人君一人暮らししているんですか?」

「そうよ、社長が持っているアパートの一部屋にね。しかも、三万円で。リフォーム済みよ? ここら辺じゃ、そんなに安く借りられないわ。まぁ、建物自体はちょっと古いけどね」

「頑張っているんですね、隼人君」隼人がどんな生活を過ごしているのか興味が湧いた。

「朝から晩まで頑張っているよ? 休みの日だって、たまに会社に来ているみたいだし……営業の仕事だからね。特に不動産だから、給料だって成功報酬だし」

「……そうなんですね」忙しい日々を過ごしている様子の隼人。休みの日も仕事をしている隼人に暇なんてありそうになかった。

「だから彼女だって、いないはすよ? 架純ちゃん、チャンス」意味深な視線を向けてきた。

「どっ、どうなんですかね……だって、もう三年経っていますから」謙遜する私に「そんなのわからないわよ? 男って、いつまでも『俺の女』って考える生き物なんだから。架純ちゃんだって、隼人君の事気になっているんでしょ? だから今日だって、こうして――」

「何でも御見通しなんですね、結衣さんは」この人の前では隠し事が無意味に思えた。

「まあね、伊達に歳食ってないから」胸を張る結衣に「じゃあ、この事は御見通しですか?」と自身の病気の事を話した。今でもどうしてあの時、結衣に話したのかわからない。月並みな言葉では現すのなら『誰かに知って欲しかった』。或いは、結衣との会話の中で心の内を開けるような女性と出合えた事が嬉しかったのかも知れない。

「……冗談でしょ?」私が話す真実を結衣は受け止められずにいた。

「本当です……これが診断書です」吉岡に作成してもらっていた。診断書に目を通す結衣が「これは、見通せないわ」と呟き、続けて「なんて言えば良いの……」と憐れむように私を見つめてきた。

「重いですよね? ごめんなさい。でも私には、あまり時間がなくて」

「隼人君に……この事は?」私は首を振り「隼人君には、言わないでください」と釘を刺した。不思議そうに見つめてくる結衣に「だって、あまりにも重い話じゃないですか?」と笑って答えた。それでも結衣は納得する様子を見せなかった。

「私は隼人君にとって重荷になる存在になりたくないんです。笑っていられる関係でいたいなって」照れながらも心情を吐露する私の答えに「笑っていられる関係……か」と呟き、何か思い悩んでいる。その表情が気になって結衣の顔を覗きこんでいた。

「……あの私、何か変な事言いました?」恐る恐る尋ねる私に「ねぇ、架純ちゃん?」と私の質問を無視して真剣な表情を浮かべる結衣。

「隼人君と同棲しちゃったら?」

「……はい?」突拍子もない提案に言葉を失った。

「同棲したら、隼人君とずっと一緒にいられるでしょ?」

「そうですけど……でも、いきなり同棲はちょっと。それに隼人君が私の事をどう思っているかどうかだって」

「……やっぱり、そうだよね」落胆を見せる結衣。確かに隼人と過ごす時間が少しでも多ければ嬉しい事だった。空白だった三年の想いを埋めるには、少しでも隼人の側にいたい。今の住まいから、ここまで来るには一時間はかかる。往復で二時間。たった二時間すら今の私には惜しかった。

「結衣さん……この近くで賃料が安いアパートってないですか? 例えば……その、隼人君が住んでいるアパートに空き部屋って?」無理を承知で尋ねたつもりだった。私の質問に結衣は驚きを隠せずにいる。

「そうよ、架純ちゃん……あぁ、もう。どうして、気付かなかったんだろう」頭を掻き毟り、興奮する結衣に見とれたままいると話を紡ぎ出した。

「隼人君の隣の部屋が空いているの。どう? お隣同士だったら、問題ないでしょ? 二階の部屋は全部リフォームしてあるし、綺麗だよ?」

 隣同士だったら隼人の仕事終わりや、時間がある時に会うにも時間がかからない。でも、賃料が気になった。それに、優子や聡にも相談しないと。

「嬉しいですけど、そんなにお金もなくて……」

「大丈夫、ちょっと待っていて。社長が持っているアパートだから、その辺りも相談してくるから」そう言って結衣が立ち上がり、二階の正和に会いに行った。程なくして、結衣と一緒に正和と小百合が現れた。環奈は二階でテレビを観ているという。正和は結論として、部屋を貸してくれる事を承知してくれたものの、それほど長い期間は住めない事を結衣が話す。疑問を持った正和が結衣に理由を尋ねた。結衣が言いにくそうにしていると、私は病気の事と隼人との関係を話す為、再びテーブルを四人で囲い正直に事情を話した。

 たどたどしく、緊張しながらも二人の目を見ながら話した。小百合は口許を押さえながら涙を堪え、正和はじっくりと私の顔を捉えながら話を聞いていた。話終えると静寂が四人のテーブルを支配した。

 こんな話を突然されたら困惑するのは当然だ。ましてや初対面の私の話しを、どこまで信用してもらえるか、二人の反応を気にした。自分本意な動機と隼人との繋がりを求める為のきっかけ作りに過ぎない。長くて一年で賃貸を解約する事。隼人の隣の部屋を借りる事。病気の事。隼人とは以前、恋人関係であった事。

「目が見えなくなった時、架純ちゃんはどうするつもりだい?」静寂を破ったのは正和だった。

「……わかりません。今はまだ、何も。ただ隼人君と別れてからの三年間、辛かったんです。父親からの暴力、病気の事……その度に隼人君だけが心の支えでした」

「いいんじゃない、おとうさん? これだけ隼人の事を想ってくれる女性は隼人にとって…ねぇ?」小百合が私に同調した。

「反対したい訳じゃない。ただ架純ちゃんが、隼人の前からいなくなるって事になった時に隼人が――」

「それは、二人が話合って決めていけば良いと思いますよ? 二人とも大人なんですから……ねぇ、奥様?」結衣が正和の話に割って入り、小百合に同意を求めた。

「そうね……それに、今の架純ちゃんの想いが大事なんだから。架純ちゃんにとっては、時間が――」小百合の視線を受け、後を継いだ。

「御迷惑は掛けしないようにします。どうかお力を貸して頂けませんか?」立ち上がり、三人に頭を下げた。

 結果として三人は、私の想いに応えてくれた。どうせなら再会はドラマチックにした方が良いと結衣が提案し出した頃には、正和と小百合は意気揚々と身を乗り出して話に加わった。話が乗り出した頃に環奈が下りてきた。予め、私の病気の事は他言無用と三人には伝えていた為、話には出さなかったが環奈も話に加わる形になった。

 簡単な打合せを終え、具体的な事については母の優子に相談してから後日、結衣に連絡する約束をした。環奈と一緒に店を出て、帰路の最中の環奈の様子は嬉々としていた。それは兄の隼人の相手が再び私になる事に対して。こういった恋愛の話に、とても過敏な年頃の環奈にとって恋愛話は大好物の様子だった。

 家に着き優子が仕事を終えて帰宅した時。話の口火を切る様子を窺った。聡の帰宅が遅い為、優子と二人で夕食を摂っている時にした。順を追って説明し、最後に素直な気持ちを優子にぶつけた。

 さすがの優子も目を丸くしていたが、予想に反して優子は否定してこなかった。心配性な優子の事だから、頑なに否定してくると考えていた。

「好きにしなさい。ただし、無理はしない事……いいわね?」

 きっと優子は、同情してくれたのだろう。難病にかかり、娘には残された時間を想うがままに生きて欲しい。この先、不自由な事や出来ない事が待っているはずだ。長い人生を考えれば、今までの人生より遥かに長い時間を過ごす事になる。自分の力ではどうする事も出来ない事実と不甲斐なさが優子を苦しめる事になるはずだ。私だけでなく聡も苦しめる事に。

「ありがとう、お母さん」

 翌日に結衣に連絡をしてアパートを借りる事を伝えた。三日後に訪れる約束をして電話を切った。隼人と行きたい場所や隼人と一緒にしたい事が溢れ出る程に脳内を駆け巡った。三年間で隼人はどう変わったのだろう。私の事を忘れていないのだろうか。結衣は言っていたけれど、本当に隼人に恋人が出来ていないだろうか。時には不安な気持ちになるものの、もう気持ちは止められなかった。

 三日後に正和ホームがある最寄り駅に到着をすると、結衣に連絡をした。隼人がこれから外出すると聞き、外出した後に店を訪れた。いざこれから隼人と再会をする事になると妙な緊張が襲った。見兼ねた結衣が励ましの言葉を私に投げかけ、正和と小百合はこれから待ち受ける展開を心待ちにしている様子だった。

「大丈夫だって。何かあったら、フォローするから」頼もしさを見せる結衣。

「何とかなるだろう……架純ちゃん、気負うなよ?」大きく構えている正和。

「架純ちゃん、頑張って」優しさを見せる小百合。

「……はい。ありがとうございます」

 結衣は大きく頷いた私を見て取ると「じゃあ、隼人君に戻ってくるように電話するね?」と言ってデスクに向かった。そして市役所に行っている隼人に来客の旨を伝え、店に戻って来るよう命じた。私の事を『相島さん』とだけ結衣が伝え、私は隼人が戻ってくるのを待っていた。


          ※※※


「ほら、着いたわよ」

 優子が軽やかなハンドル捌きで自宅の駐車場に車を停めた。優子の一言で私は、過去から現在に戻り、我に返った。優子の支えを受けて車から降りる。感傷に浸っていた私は、地に足を付けた途端に涙を零した。優子に気付かれないように、そっと目元を拭う。過去と現実を行き来した事によって、気が緩んだのかも知れない。

 懐かしさと尊さが支配していた状態から現実が覆い被さる事によって、精神が悲鳴を上げた。

 これから幾度、涙を流すのだろう。今の私は、決して弱い人間ではないと自負していた。それでもこの有り様を受けて、まだまだだと思った。

 こんな状態を優子や聡に見せてはいけない。

「さあ、入って」優子が玄関扉を開けて、中に入るように促した。

「……うん」

 顔を上げて声がする方を見遣ったが、優子の顔を鮮明に見る事はもはや難しかった。

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