『二人のソクラテス』第17話
恐らく幾つもの時空を超えて、刻が過ぎ去ってから僕は目覚めたと思う。
目覚める前に謎の声が聞こえてきたから。その声は男性とも女性とも判別がつかなかった。
『後悔をしてでも望みを叶えたいか、後悔をせずに平凡な人生を過ごすか』
あの声が神様の類なのか。そう思える程、何十の質問が聞こえた。
その度に僕は『後悔をしてでも望みを叶えたい』と心の中で答えた。
後悔のない人生はないと僕は知っているから。
目覚めると自室のベッドの上だった。迷い人として生きた事も不思議と記憶は残っていた。
これが転生の類なのか、或いはチエさんが言っていた霊魂は生き続けると言っていた事なのか。
この世界がどの世界なのか、わからないけれど、きっとこの世界の僕の魂と同化したような事なのだと冷静に考えられた。
テレビを点けると、朝の情報番組がやっていた。時刻は朝の八時。今日は両親が亡くなって四十九日が過ぎていた。
そうなると迷い人として生きていた世界と同じ世界なのか。そうなると僕が死んだ事実がないとおかしい。
でも僕はこうして生きている。また迷い人として蘇ってしまったのか。
いや、既にお帰りな祭の期間が過ぎているから考えにくい。恐らく自殺をしないで生きた世界なのだろう。
不思議とこの状況を自然と受け入れる事が出来た。これは神様の試練なのか、或いはプレゼントなのか。
一階に降りると、店舗スペース横の六畳の和室に仏壇があった。両親の笑った写真が遺影として飾られていた。
線香を灯して合唱する。二人に感謝の意を述べて、心に刻んだ決意を伝えた。
外に出ると澄んだ空気が僕を出迎えた。街並みは僕が知っている街並みと変わらない。その足で小野川沿いを歩き、商店街通りを歩けば顔見知りの八百屋の主人が挨拶をしてくれた。
今度は迷い人としての僕に向けた挨拶では無さそうだった。やっぱりこの世界は僕が生きていた世界と何も変わっていなかった。
店に戻って身支度と軽食を済ませると、営業開始時間の三十分前になった。店内の清掃をしていると、裏口から春菜さんが姿を見せた。
「おっ、おはようございます」
僕を認めると、戸惑いを見せながら挨拶をする春菜さん。何だか不思議な感覚に陥った。
先程、いや実際には幾つもの時空を超えているから違うのだろうけれど、泣き崩れた春菜さんの顔をさっき見たばかりの記憶が鮮明に残っているだけに調子が狂いそうだ。
僕が迷い人として最後に見た春菜さんよりも頬はこけて生気が欠けているようだった。
恐らく両親が亡くなった気苦労と春菜さんが言っていた僕に不動産売買をやらせたい思いを抱えたままなのか。
それに僕が死んで迷い人として蘇らせる事も出来ない状況。この世界の春菜さんの心労は大きいのだろう。
「どうしたんですか、こんな早くに。掃除でしたら私がやりますから」
掃除機を僕の手から引き取る春菜さん。
何か腑に落ちなさそうな表情をしている春菜さんに決意を伝える事にした。
「春菜さん、ちょっといいですか?」
掃除機をかけている春菜さんに大きめの声で呼んだ。春菜さんは掃除機を止めて僕に振り返る。
「不動産売買をやりたいので、教えてもらえますか?」
鳩が豆鉄砲を食らったように目と口を大きく開けて、立ち尽くす春菜さん。
「ちょ、ちょっとすみません。もう一度、お聞きしてもーーー」
「だから不動産売買がやりたいので、春菜さんに教えてもらいーーー」
「きゃぁああーーー」
耳をつんざく程の叫び声を放ち、頭を抱えてその場にしゃがみ込む春菜さん。
心配になり春菜さんに近づこうとした時に突然、春菜さんが立ち上がった。
「いいですよ、もちろん。いいですとも」
目には涙を溜めて、今まで見た事がない程に嬉しそうな表情をしていた。
「ですが理由をお伺いしても? あれだけやりたがっていなかったのに」
この世界の僕も拒否していたのだろうか。それを突然、やりたいだなんて言われたら当然の質問だろう。
「やりがいを見つけたんです。それにこの店を残したいと思って」
「……やりがいって星哉さん、まだ売買の経験ないですよね? 私としては嬉しいので別に構いませんけど」
迷い人時代に経験したとはとても言えない。答えを間違ってしまった。それでも春菜さんが深追いして来なかったので、そのまま話は流れた。最後には高校はちゃんと卒業して下さいと念を押される始末。
一緒に春菜さんと掃除をして終わると営業時間の九時三十分になったので、表のシャッターを開ける。今日は天気がよく、暖かい日差しが店内に降り注いだ。空を仰ぎ、大きく深呼吸をする。
僕はこの世界で精一杯、生きていく事を決めた。
どんな理由が出来て辛い事や苦しい事が起きたとしても、その問題から逃げない。
目指した先が、なりたい自分が、必ずしも思い描いたように良いとは限らない。
でもそれは、そこまで辿り着いて眺めてみないとわからない。
だったら、目指して見ようと思った。
もう僕は一人じゃないから。
大きく伸びをした後に、もう一つ春菜さんに相談したい事を忘れていた。
「実は一人、雇いたい女性がいるんだけど、いいですか?」
「良いですけど、その方はどんな方なんですか? それとそれほどお給料をお支払い出来ないかもしれませんが」
「歳は僕と同い年です。彼女には向かいの部屋に住んでもらうのでそれほど問題にならないかと。それに春菜さんには僕が売買営業として一人前になるまで、僕の補佐兼事務員として働いてもらいますが、事務職は必要になるでしょ?」
「……確かにそうですね。売買が軌道に乗れば、売り上げは伸びますからお給料も大丈夫でしょう。それでしたら一度、お会いしたいですね」
その言葉を待っていた。僕は身支度を済ませる。
「早速、迎えに行ってきます。いいですよね?」
「ええ、行ってらっしゃいませ」
店を出ると、僕は走って駅に向かった。
この世界にも由夏がいる気がする。
きっと由夏が僕を待っている。
そんな気がしてならなかった。
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