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『二人のソクラテス』第9話

 私が迷い人とチエさんに言われてからも周囲の反応は変わらなかった。


 自分でもどうしてこうなったのか、はっきりしないにも関わらず、変に気を使っている感じもない。


 私だったら気味が悪くて近寄り難い存在になるのに。


 薄々だけど、この世界にいた私という人間は、もう存在しないのだろう。


 私がこの世界に来たせいでチエさんが言う霊魂が、今の私とそれは一緒になった気がする。


 それはこの世界に来た時から感じていた。霊魂が一緒になってこの世界にいた私が過ごしてきた記憶が流れてきた。


 でもその記憶は私が知っている事、経験した事ばかりだった。

 

 はっきり言って今の住環境が居心地良い。人の温もり、優しさが暖かい。それを私が言ったら変な感じ。


 以前の私には経験した事ない感情がこの世界に来てから全身を駆け巡る日々だった。

 

 今日も変わらず、星哉くんと春菜さんは忙しそうに外出した。先日、来店した服部夫婦の案件で忙しそうだった。


 服部夫婦はとても仲睦まじい。ああいう夫婦像を私もかつて抱いていた。


 変に互いに気を遣わずに尊重して、笑っていられる生活。なんだかちょっと羨ましく見えた。


 私は留守番を頼まれた。星哉くんはあれから活き活きと仕事をしている。


 春菜さんも星哉くんが売買の仕事を始めて嬉しそうだった。今の星哉くんの顔は見ていて微笑ましい。

 

 商店街で買ったお惣菜で昼食を摂っていると、チエさんが来店してきた。


 口をモゴモゴさせながら立ち上がると「……星哉達は留守かい?」と尋ねてきた。

 

 口の中の物を一気に飲み込むと大きく頷いた。


 するとチエさんが「そうかい、それなら都合がいいかもな」と意味深に言う。


「のう、少し話し相手になってくれぬか?」


 私はなんだか怖かった。チエさんの私を見る目は、好奇心に満ちている。


 何か面白がっているような、小さな子供が新しい玩具を見て早く遊びたい気持ちでいっぱいの時と似ている。

 

 私は言葉少なく、チエさんをカウンターの席に案内した。給湯室から冷えた麦茶を差し出すと向かいに座る。


 チエさんは私が出した麦茶を美味しそうに一気に飲み干した。大きな溜息を一つ溢し、開口一番は天気の話だった。


 梅雨が開けて連日三十五℃を超える猛暑日が続いている事。それから先日のお帰りな祭の予行練習が上手くいった事。


 そんな話ばかりだから、本当にお婆ちゃんの話し相手をさせられているようだった。


 私の心配していた事は杞憂に終わりそうだ。


「ところでお前さんは、いつ頃からここにいるんじゃ?」


 チエさんのぎょろっとした目が胸を突く。口元をにやりと上げて何か私の奥底を覗き込んでいるようだった。


「……えっと、一ヶ月くらいですかね」


「お主の生まれはこの街じゃないんじゃろう? 誰か他に知り合いはいるのか?」


「星哉くん以外は。あの何か?」


 するとチエさんは目を閉じて腕を組み出すと何か考え込んでいる様子だった。


 何かいけない事でも言ってしまったのかと内心はドキドキだった。余計な事は言っていないと思う。


「お主は何か、やり残した事や悔いがあったりするのじゃな。じゃなきゃ、迷い人として蘇るのがおかしい。現にわしが召喚した訳じゃないのじゃからな」


「……私にはさっぱり分からなくて」


 やはりチエさんには敵わないと思った。


「この前も言ったが、迷い人として召喚されるには、召喚される人間の霊魂が強く望むか、生きている人間の強い想いが必要となる。お主の場合、星哉以外にこの街に知り合いがいない地に召喚されたという事はお主自身が強く望んだ他にない」


「……そうなんですかね。私には本当に何もわからなくて。それに星哉くんが呼んでくれたかも知れないし」


 万の可能性を言ってみたがチエさんが突如笑い出した。


「それは残念ながら万に一つもないぞ、小娘。星哉はーーー」とチエさんが口に手を当ててつぐんだ。


 ハッとしたチエさんは「茶の代わりを頼む」と空いたグラスを私に差し出した。


 仕方なしに給湯器に向かい、チエさんにお代わりを差し出す。

 

 さっき言いかけたチエさんの言葉の続きを推測すると、星哉くんは私の事を特別に想っていないって事なの? それとも他に想っている女性が星哉くんにいるって事をチエさんが知っている? 


 なんだが悶々としてきた。今あれこれ考えたって仕方ない。


 話を変えようと思い、以前から気になっていた事を尋ねようと思った。


「前から気になっていたんですか、チエさんがかけているそのネックレス、綺麗ですね」


 チエさんの首元に青く透き通った宝石が装飾されているネックレス。印象的に残っているネックレスだった。


「これは代々わしの家に継承されている大切なネックレスでな。迷い人を召喚する時の儀式や霊魂を集める際に使っているのじゃ」


 そんな大切なものだとは思っていなかった。今でも私に光を照らしてくれているように輝きを放っている。


 チエさんが宝飾に触れながら、意味深な視線を向けてきた。


「まぁ、別にお前さんがどうだろうと良いのじゃ。本来、迷い人は以前の記憶が無いのが特徴じゃが、ごく稀に記憶を取り戻す事がある。お主が仮に記憶を取り戻したら、わかる事じゃ。それにわしは星哉が悲しむ顔を見たくないだけ。わしにとっては孫みたいなもんじゃからな」


 チエさんがゆっくりと立ち上がった。去り際に「茶、馳走になったな」と笑顔を見せた。


 本当にこの人は何を考えているのかわからない。わからないだけに心の奥底まで見透かされているようで怖い。


 別に特段の隠し事をしているつもりはない。


 誰かに迷惑をかける訳でもないからいいのだけれど、特別な思いを抱えているだけに余計な事は言いたくなかった。


 そこにチエさんと入れ違いに春菜さんが帰ってきた。春菜さんは私に一瞥くれるとチエさんと小声で何やら話始めた。


 まるで私に会話の内容を聞かせないように。それでもチエさんの声が大きいから断片的に聞こえてきた。


『わっわしは何も言っておらんぞ』


『その事は言う訳ないじゃろう?』


 なんだか盗み聞きしているみたいであまり気持ちがいいものじゃないな。その会話から判断して何か二人の秘密がある事は確かみたい。


 会話が終わるとチエさんは帰っていった。チエさんを見送る春菜さんの顔からは困った様子が窺えた。


 私は二人の会話は聞いてませんよってアピールするかの如く、チエさんに出したグラスを片付けたり、テーブルを拭いたりしていた。


 なんとなく春菜さんと顔を合わせるのが気不味い。


「あっ、そうだ。由夏さん?」


「はっ、はい?」声が裏返った。給湯室でグラスを洗っている所で春菜さんの声が鳴り響く。


 意外と大きな声を出すんだなって春菜さんの新しい一面を見た。


「焼き団子買ってきたんだけど、一緒に食べない?」


 給湯室から覗くと春菜さんが両手にみたらし団子の串を持って笑顔を向けてきた。


「良いですね。お茶淹れます」


 そこから二人で腰を下ろし、みたらし団子を食べ始めた。春菜さんは明らかに上機嫌だった。


 私が勤め始めてから、こんなに嬉しそうにしている春菜さんを初めて見た。


 聞けば星哉くんと一緒に物件の市役所調査をして何も問題がなかったらしい。


 先日案内した村山さんが所有している家を服部ご夫妻は気に入って申し込みを書いた。


 契約に向けて改めて星哉くんと市役所や関連企業に赴いて物件の調査をしてきたらしい。


 どうやら上手くいったみたいで機嫌が良いのはその為みたい。


「それで星哉さんは確認事があるから物件に行っているわ」と話すと、お茶を啜り出した。


「……その星哉くんは一人で大丈夫なんですか?」


 春菜さんは何がと言わんばかりに不思議そうに見つめてくる。


「だって、星哉くんは初めての売買経験なんですよね? 春菜さんが付いていかなくて大丈夫なのかなって心配で」


「それなら大丈夫よ。星哉さんに確認をお願いした所は、既に私が確認しているし建築士にも見てもらって裏はとっているわ。星哉さんの勉強の意味でお願いしただけだから問題ないわよ。それに星哉さんは飲み込みが早いわ。自分が経験した事をちゃんと飲み込んでアウトプットしている」


 そういうものなのかと納得するしかない。


 素人の私が口を挟む事ではないのかも知れないが、悪戦苦闘しながら仕事に励む星哉くんを想像すると心配だった。


「この前は本当にありがとう、由夏さん」


 突然、春菜さんが頭を下げてきた。


 私には何の事なのか心当たりがなかったので聞き返すと「あなたが星哉さんの背中を押してくれたから星哉さんが不動産売買を始めてくれた。あの時、服部さん達が来店した時にきっかけを作ってくれたのは大きかったの」と春菜さんは再び頭を下げた。


 聞けば春菜さんは私が星哉くんと話している所を聞き耳を立てて聞いていたらしい。


 あの時、春菜さんは服部夫妻を接客していたはずなのに、すごい人だなとつくづく思った。


「いえいえ、私は大して何もしていませんから」


「ううん。あなたにとって大した事じゃなくても、私にとっては悲願だったのよ。星哉さんが不動産売買を始めてくれたのは」


「そっ、そうですよね。ずっと春菜さんは星哉くんに売買を勧めていたって」


 私が来てからも何度か星哉くんと春菜さんが話している所を目撃した事があった。


 それほどまで売買を星哉くんに勧める事が春菜さんにとって特別な何かがあるとは漠然と思っていた。 


「ちょっと私の身の上話、聞いてくれる?」


 突然の申し出に私は大きく頷いた。春菜さんの身の上話はとても興味があったから。


 何でも完璧に仕事をこなすキャリアウーマンの春菜さん。プライベートな所までは聞いた事がなかった。


「私ね、シングルマザーなの。小五の娘がいてね」


 そこから春菜さんは滔々と話した。大学を卒業して大手の不動産会社に入った事。旦那さんとは職場結婚した事。相手の旦那さんとは同期入社だった事。付き合って二年が経った頃に結婚して出産。仕事が好きで育休を取らず、両親に娘を預けて仕事に励んだ事。


 その結果、支店長まで上り詰めた事。でもそれを良しとせず、旦那さんとは喧嘩の毎日。次第にすれ違いが起きて離婚した事。


「親権は私がもらったわ。慰謝料、養育費はもちろんもらわなかった」


 理由を尋ねると「だって彼より給料良かったし」とお茶目な笑顔を見せてくれた。


 旦那さんは県外に転勤して別れてから会っていないらしい。


「その後は何となく職場に居づらくなってね。ちょうどその時くらいかな。娘が時々、寂しそうな顔をするようになったの。まだ年長さんだったかな。一回も弱音を吐かない子だったんだけど、幼稚園の催し物に仕事があって参加出来なかった時があってね。その日の夜に泣いて私に当たってきた。どうしてママはいつも忙しいのって。あぁ、このままじゃ私、駄目だ。ママらしい事は仕事を理由に何もしてこなかったなって。それで会社を辞めたわ」


 遠くを見つめながら話す春菜さんが綺麗だった。こんな表情もするんだなって。ちゃんとお母さんの顔をしていた。


「そんな時に街中を娘と歩いていたら、星哉さんのご両親、つまりここの会社の社長と奥様に会ってね。前の会社にいた時に取引した事があったの。私が客付けする立場だったかな。近くの喫茶店に入って状況を話したら、ここで事務員として雇ってくれたの」


「……そういう事だったんですか」


 なかなか聞けない春菜さんのルーツ。人に歴史ありと聞いた事があるけれど、春菜さんの意外な過去に驚きを隠せなかった。


「だからこの会社には恩義を感じているの。娘の事を第一に考えて休んだりして構わないって言ってくれているし、そのおかげで前より娘と接する時間も増えたわ。それで賃貸だけじゃなく売買もやる事になれば、より会社としては良くなるって事よ」


「そうですけど、それなら大変だとは思いますが、星哉くんに売買をやらせないで春菜さんや社長がやれば良かったんじゃないですか? 経験者のお二人がやればもっと売り上げが伸びるんじゃ?」


「それは駄目よ。私はあくまでも事務員として雇用されているし、出しゃばるのは違うわ。それに社長だってーーー」


 そこで春菜さんが言いかけていたのに口をつぐんだ。


 話を催促しようと口を開きかけた時に「ちょっと喋り過ぎたわ、ごめんね」と話を切り上げようとお茶やお団子をお盆に乗せ始めて片付けを始めた。


 消化不良気味だった私に春菜さんが「女に秘密はつきものでしょ?」と私の額を軽く叩いた。


「そういう訳でね。最初はあなたの事を斜に構えて見ていたのは事実よ。突然、星哉さんがあなたを連れてきて、ここで働きたいって言うんだもん」


 先の話を聞いて、春菜さんがこの会社に特別な思いを抱えている事を知ると、当時の春菜さんからすれば面白くない事だったのかも知れない。


 いきなり蚊帳の外から未経験の女が働きたいと現れば当然の感情。


「あの時は厳しい態度を取っちゃって、本当にごめんなさい」


「いえいえ、そんな謝らないでください」


 やけに今日の春菜さんはいつもと違う感じだった。普段の春菜さんはここまで口数が多い印象はないし、感情を素直に表に出さない人だと思っていた。


「でもね、私は今のあなたの事を一人の女性として肯定するわ。例え、迷い人だろうと何だろうと。今のあなたを私は誇りに思うわ。信頼出来るスタッフの一人として」


 思いもよらない言葉に胸を打たれた。ここまで人から褒められた事がなかった。受けて来たのは誹謗中傷の言葉ばかり。ましてや歳上の同性からこんな言葉を受けた事がない。


「だからこれからも星哉さんの事をお願いね」


 両目に涙が溜まっているのがわかった。頭を下げる歳上の先輩女性。込み上げてくる感情を素直に受け入れた。


「……ありがとうございます。本当にありがとうございます」


 春菜さんの一言に私は救われた。

 

 仕事が終わり食事を済ませて物思いにふけながら窓の外を眺めていると、星哉くんの部屋に明かりが点いた。


 ようやく帰宅したようだった。時間は二十時を過ぎている。


 きっと今から疲れ切った体を癒して、また明日から多忙な日々を過ごすのだろう。


 ちょっと前の星哉くんと私は互いに無い物強請りをしていたと思う。星哉くんは恵まれた家庭環境があるのに、人生を前向きに考えられない。


 一方の私は人生を明るく楽しいものにしたいと想いはあるのに、家庭環境が恵まれなかった。


 互いに心のどこかで妬み、羨ましく思っていたと思う。

 

 でも今では互いに無かったものを手に入れた。


 私はどんどん欲張りになってきている事を自覚すると、それがとても虚しく、悲しかった。

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