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『二人のソクラテス』第6話

 最初は気にも留めない存在の一人だった。


 他人に関心を持てない僕に同学年、ましてや他クラスの女性に興味を持つはずがなかった。

 

 きっかけは図書室の本の貸し出しカード。


 ある時、ふと放課後に立ち寄った図書室で借りて見たいソクラテスの本を手に取り、流し読みをしただけだったが、翌日に借りて読もうとしたら、その本が貸し出されてしまい、借りる事が出来なかった。


 貸し出しカードにはCクラスの女性の名前。一週間後に返却されるまで、他の本を読むかと手に取ったのはニーチェの哲学書。

 

 ニーチェの本を三日で読み終えた僕は、早くソクラテスの本が返却されないかと待っていたが、なかなか返却されない。


 悶々ともどかしい時間を過ごしていたが、我慢が出来ず借りている女の跡を追った矢先で女は河川敷で本を読んでいた。


 僕のペースを掻き乱した存在。由夏と名乗った彼女はどこか僕と似ていた。


 彼女の現状の生活や環境、死生観はどこか似たような悩みや疑問を持っていて、今まで誰にも打ち明けた事のない話を由夏には自然と話せた。


 そう思えたのはもしかしたら、心のどこかで由夏に同情していたからなのかもしれない。

 

 由夏は僕の家庭環境を羨ましいと言った。由夏には人並みの家庭環境がない。


 その時点で僕とは比べられない程の環境で育ち、物の価値観は比較出来ない程に異なるだろう。


 それぞれの立場、目線で似たような悩みや不安はあるのだとその時、初めて知った。


 僕は両親に不満はない。恐らく、大半以上の子供にアンケートを取れば不満はないと答える両親だ。


 一人息子の僕に愛を注ぎ、贅沢や我儘な事を言っても嬉しそうに僕の要求を飲んでくれる。


 それを嬉しそうにしている僕を二人して喜んでくれる素敵な両親だとつくづく思う。


 そんな生活をしていれば次第に生活に刺激が欲しくなる。


 思春期を通り越して中学校を卒業した頃には、自我が崩壊して思いのまま人間崩壊したくなる衝動に駆られる時があった。


 今でも思った感情のまま、流されるがままに事を起こしたら、どうなるのだろうと空想の世界に没入する時がある。


 些細な事なのかもしれない。社会に対する漠然とした恐怖。人見知りな僕は友人と呼べる人は誰もいない。


 だから相談も出来ない。相談した所でどこか同級生達を下に見ているから相談は自尊心が許さない。


 目先の遊びや何も身にならない時間に昼夜時間を割いている同級生達はなんて愚かだと思い始めた。


 未来を想い、自分が二十歳や三十歳と歳を重ねた自分を空想しても、脳裏に思い描いた絵は暗黒世界で真っ黒だった。


 その絵を見た瞬間、身震いした。今でも覚えている。


 未来を変えたい。刺激が欲しい。変化が恋しい。


 何から手をつけて良いものなのか、そもそも手をつけて良いものなのか。


 未来を良くしたいとか、そういう事を求めているわけじゃない。何を求めれば良いのか、何をすれば良いのか。


 夢や目標を想い描けと大人達は言うけれど、そんな無責任な言葉が世間に蔓延っている事自体が不思議だった。


 よく大きな声で平然と、さも自分が話している事が大正解だと胸を張って言えるのだろう。


 他人に全く関心を持てない。同世代が幼く見える。


 中にはそういった幼稚な考えを持たず、先を見据えた勉学に励んでいる者、或いはスポーツ、部活動に勤しむ者もいる。


 両親、あるいは他人から期待や羨望の眼差しを受けて、自分を追い込む、追い込まざるを得ない状況に落とされて、日々の生活を送っている。


 彼等には一定の敬意を表するが、情けと同情しかない。羨ましいとは露すら思わない。


 他人に敷かれたレールを走り、一見自分の人生は輝いていると錯覚するだろうが、絶望がその先に待っている事を知らない。


 些細なきっかけで人間は簡単に壊れる。何でもいいんだ。


 自分より優れた人間と出会い、研鑽を重ねた所で敵わないと知った途端、自身が設定したハードルを下げる事になるが、一度下げたハードルを上げる事が出来ないと気付いた時、あるいは後ろを振り返り、費やしてきた時間と労力に後悔する。


 だから夢や希望、目標を持つ事がいかに愚鈍な事なのか僕は知っている。

 

 その点、両親達は特段、僕に何かを求めている節は全くない。


 もしかしたら心のどこかで一人息子なだけに不動産会社を営業している為、跡継ぎとして考えているのかも知れない。


 僕は正直、何も考えていない。仮に両親が僕に頭を下げてきた所で、それを受ける可能性は限りなく低いと思う。


 理由は自分が何の為に生まれて、何をする為に生まれてきたのか。答えが見つからないから。


 それが本当に人生で正しい選択なのか。それが解らない段階では何も事を起こさないだろう。


 その両親は今度、銀婚式の為に世界旅行に行く。勿論、僕は留守番だ。寂しさは一切ない。


 むしろ、仲の良い両親には羽を伸ばして楽しんできて欲しい。別に構って欲しいとかそういうのじゃない。


 意地を張っている訳でもない。そんな冷めた空虚な心は、自我が目覚め始めた頃から続いていた。


 漠然と未来に不安を覚え、漠然と日々の生活に不満を感じて、漠然と日々の生活が退屈になってきて、漠然と刺激や変化が欲しい。


 そんな些細な事の積み重ねが死について興味を覚えただけの事。


 人間誰しもが辿り着く終着地である死は、先行き見えない僕にとって確実に目指せる場所だった。


 だからこそ、由夏の存在は日々大きくなっていった。同じ悩みや死に興味を持つ同年代。


 自分の世界だけは特別な世界で、それでも枯渇する人生欲を満たしたいが、何かが足りないと思っていた。


 足りない要素は肯定だった。悶々とした日々を過ごし、自分は特別だと思っていた事がそうではない。


 自分の考えを肯定して正当に評価をして欲しかった。日々の生活に潤いと刺激を与えてくれたのは、由夏だった。


 それからも由夏とは、河川敷で話し合った。互いに思う事、日々感じる事。高校の不平や不満。

 

 その中で互いに共感し合えたのは、やはり死についてだった。


 先行き見えない将来に対して由夏の持論を聞いていると、まだ希望を持っている事に首を傾げたくなる。


「私は平凡な生活で良いの。人並みに三食食事が出来て、化粧をして新しい服を着てお出かけしたい。携帯だって持ちたい。今の私には何もないから」


 控えめな口調の中に、由夏の意思の固さが見えた気がした。


 彼女の生活を聞く限り、一線ギリギリの生活なのだろう。


「……そんな明るい未来が待っていると?」


「いずれは結婚して子供が出来て……そんな生活が出来れば嬉しいと思っているけど」


 由夏は俯きながらも上目遣いで僕を見つめてきた。


 肯定して欲しそうに見つめてくる由夏に対して、僕は肯定を渋った。


「それすら星哉くんは駄目だと思っているの?」


 変に期待を由夏に持たせたら危険だと感じた。期待の裏には絶望が待っている。


 それは表裏一体の関係。由夏が過ごしてきた人生を考えれば希望を持つ事は必然に思える。


 或いはこのまま世を憂いて一線を越える瀬戸際の状態なのかも知れない。


 もっと由夏と話したいと思った。今ここで結論付けるよりも由夏には、もっと様々な死生観を与えた方が良いのかも知れない。


 何故だろう。この女は死なせてはいけないと思った。


 普段から死について考えている僕が他人の死を拒否するだなんて。


「今度、休みの日に家に来ないか?」


「……えっ?」


 絵に描いたように驚きの表情を見せた由夏の顔は次第に頬を赤らめた。


「この間の礼も兼ねてさ。ほら、ソクラテスの本、勝手に借りていっただろう?」


「でもあれは、私が早く返さなかっただけでーーー」


「実は家にいろんな本があるんだ。ニーチェからプラトンまで。親父も結構好きでーーー」


「行く、絶対行く」


 見た事がない程、由夏の目は輝いていた。その日は明後日の週末に由夏とここで待ち合わせをする事に決めると解散した。


 由夏がこれ以上、未来に希望を持たないようにする為にはどうしたらいいか。


 自宅までの帰路はそれだけで頭がいっぱいだった。

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