出逢い

銀座の老舗フランス料理店に着いたのは、約束の六時半きっかりだった。広い店内には真っ白いクロスに覆われた丸テーブルが八卓あるが、まだ客はひと組しかいない。テーブルに置かれた赤いバラが水滴を二つ三つのせてガレ風のシャンデリアの灯りを跳ね返している。秋臣(あきおみ)はメニューを開いていつものように相手を待たずに注文した。
五分も経たぬうちにボーイに案内された待ち人が姿を現した。ベージュのタイトスカートに白いブラウス、胸元には小粒の真珠のネックレスをつけて、スカートと同色のジミーチューのローヒールを履いている。その靴は秋臣が母の日のプレゼントに贈ったもので、一部にメッシュが入ってとても涼しげだ。
「お待たせ!」
「僕も今きたところ」
 秋臣にとって母の寿美子は子供の頃から自慢だった。上品で美しく、七十代になった今でも凛とした佇まいは変わらない。
五百円硬貨ほどのそば粉のパンケーキにキャビアが添えられた前菜が運ばれて来た。
「食事の後、買い物しない? 夏のボーナス入ったから何か買ってあげるよ」
寿美子は小さく首を振って微笑んだ。
「ボーナスはちゃんと貯金しておきなさいね。独り身なんだから、何かあった時はお金が頼りよ。秋臣は母さんにお金を使い過ぎるわ」
「親孝行させてくれるのが子孝行だと思ってよ。僕はそこそこ稼いでるんだから少々母さんにお金使ってもほとんど余ってる」
寿美子は一つだけパンケーキを食べ、秋臣の方にそっと皿をずらした。まだパンケーキは三つ残っている。
料理は甘エビのスープ、和牛の赤ワイン煮込み、トリュフのパイ包みと続き、あとはデザートのアイスクリームを残すだけになった。寿美子はどの料理も美味しそうに舌鼓を打ったが、半分ほどしか食べきれない。これも「老い」というものなのかと秋臣は切なかった。

食事を終えて店を出た時、寿美子は「少し歩きたい」と言い出だした。
「ワインで顔が火照ってるから風にあたりたいの。付き合ってくれる?」
 長く西の空に居座っていた夏の陽も、すでに残光さえ失って、そぞろ歩いてもさほど暑くなさそうだ。西銀座通りを両側から挟む垂れ柳(しだれやなぎ)が青々とした葉を茂らせ、地面すれすれに枝を揺らしている。
寿美子はゆっくり歩きながら、時折誇らしげに息子を見やった。156センチという身長はこの年の女性としては決して小柄ではないが秋臣はそれより三十センチほど高いので「見上げる」形になる。
「たまには帰ってらっしゃいよ。仕事ばっかりして……」
どのくらい実家に帰っていないだろうと、秋臣は頭の中で指を折った。
「僕が最後に帰ったのって、いつだっけ?」
「四月十二日よ」
 寿美子が即答した。
「もうすぐ葉桜になってしまうっていう時で、半分以上花びらが散っていたからがっかりしてたじゃない」
「ああそうだった」
毎年実家の近くの桜の並木道を母とゆっくり歩くことがいつの頃からか恒例行事になっている。
「今年は一番いい時期の桜を見逃しちゃったから悔しかったなあ。来年は満開の時に行くから、一緒に歩こう」
寿美子はふと立ち止まって細い枝を風になびかせる柳を見上げた。街路灯が照らしたその横顔が何かを思いつめたような憂いに満ちていて、秋臣はかすかに胸騒ぎがした。
「秋臣、母さんね……来年は一緒にお花見できないわ」
 寿美子の瞳には柳に降り注ぐ灯りが映ってキラキラと輝いていた。
「え? どうして?」
「……父さんのところに行くから」
 秋臣の背中が粟立(あわだ)った。
「母さんね病気なのよ。お腹に悪いものができちゃったの。あと一年って余命宣告されて、もうすぐ七ヶ月になる。今までどうしても言えなくて……。今日になってしまったの」
いきなり鈍器で頭を殴られたような衝撃に、秋臣は声を失った。
 寿美子は立ちすくむ秋臣の顔を覗き込み、背中にそっと手を当てた。
「こんなことになって本当にごめんね」
寿美子の顔にはいつもと変わらない穏やかな笑みが浮かんでいる。
「そろそろお父さんのところに行ってあげなくちゃね。もう四十年も待っていてくれたんだもの」
父が早死にしたせいで母は苦労の多い人生を送ってきたのに……と秋臣の胸には怒りにも似た気持ちがこみ上げた。
秋臣の脳裏に母との想い出が怒涛のように浮かんでは消え、消えてはまた浮かんだ。朝から夕方まで家政婦として働き、金曜と土曜の夜は近くの居酒屋でアルバイトをしていた。家にいる時でも和裁の内職をしていたからどんなにかいつも疲れていたに違いない。それでも秋臣に絵本を読み聞かせて、美味しい手料理を食べさせ、運動会や父兄参観には必ず顔を出してくれた。いまの自分よりずっと若い日の母の姿が今でも鮮やかにまぶたの中に残っている。
母を安心させたい、早く楽をさせてやりたいという一心で、今まで秋臣は何事にも全力を尽くしてきたのだ。反抗期もなく、常に優等生を通し、一流大学を卒業して日本有数の大企業に就職した。そして最年少で部長にもなったのだ。これから長い間存分に親孝行できると思っていたのに、あまりに早過ぎる。
秋臣は冷静さを取り戻そうと必死だった。こんな時こそ自分がしっかりして母を支えなければならない。
「母さん、そんなに簡単に諦めないで。もっといい医者に診てもらおう。僕が探すから」
 寿美子の顔から笑みが消えた。
「やめて。セカンドオピニオンも同じ結果だったの。母さんの望みは、できるだけ今まで通りに暮らすことよ。病院には入りたくない。あの家で最後まで暮らしたいの。有川病院を知ってるでしょう? 院長先生が地域の人のために在宅医療に力を入れて下さって、あの辺りの老人は何人もお世話になってる。家で最期を迎えたいと言う患者を看取って下さるの。もう院長先生にはお願いしてあるのよ」
母の気持ちを尊重しなければならないことは、頭ではわかっていた。しかし、どうしても諦めきれない。苦労してきた母があまりにかわいそうだった。
秋臣の目の中にある思いを読み取ったのか、寿美子は優しくうなずいた。
「かわいそうなんて思わないで。母さんは何も思い残すことはないんだから」
そう言い切った母の目の中を、秋臣はじっとのぞき込んだ。
「本当に? 本当に何一つないの?」
 短い沈黙の後、寿美子は長い息を吐いた。
「もし願いが叶うなら……智夏(ちなつ)君に会いたい」
 一気に全身の力が抜け、地に引きずり込まれるような気がして目をつぶった。
秋臣には何一つ返す言葉が見つからなかった。

寿美子を乗せたタクシーのテールランプが車の流れの中に紛れて見えなくなった。糸のように細い雨が降り始め、立ちすくむ秋臣の肩を濡らした。遠雷は鳴り止まない。麻のジャケットに染み込んだ雨は生ぬるい土の匂いがした。
秋臣は自分の頬を伝うものが、涙なのか雨なのかそれさえもわからなかった。

 金曜の繁華街は人があふれていた。誰もが皆幸せそうに見える。どこといって行く当てがあるわけではなく、秋臣はただ歩き続けた。
母さんはもうすぐ死ぬ。そして自分はその最後の願いすら叶えることができないのだ。
慎重に積み上げてきた積み木のタワーが、最後の一つが見つからずに崩れようとしていた。これまでの努力や、心が望むものを諦めてきた日々がただただ虚しく思えた。
秋臣は雨に追い立てられるように目の前の居酒屋に飛び込んだ。
「いらっしゃーい!」
 野太い声と客の喧騒に迎えられカウンターに座った。
「ビールを……」
 品書きを渡されて、機械的にいくつか料理を選んだ。食欲など全くないが一人で酒だけを飲む陰気な一見(いちげん)客は不気味かもしれないという小さな理性だけが残っていた。
料理が次々に運ばれてきたが、結局ほとんど手をつけることなく酒を流し込んで行く。ビールから冷酒に替え、ウイスキーの水割りを頼んだあたりから頭がぼんやりしてきた。
今何時なのか、幾ら払ったのかもわからない。街路樹のケヤキが斜めに見え、地面が揺れている。どうしてもまっすぐに歩けない。
いきなり肩に衝撃を受けて足がもつれ、濡れた地面に尻餅をついた。ぶつかった若い男が「馬鹿野郎! 気をつけろ!」と怒鳴りつけ、連れの男が「おっさん、前向いて歩けや」と吐き捨てた。
ダメージジーンズとカーゴパンツの後ろ姿を見た瞬間、激しい怒りがこみ上げ、地面に落ちていた飲みかけのペットボトルを力任せに投げつけた。それは一人の腰のあたりを直撃した。
「何すんだよ、てめえ!」
 男が振り返り、秋臣に飛びかかって殴りつけた。そして二人がかりで秋臣を蹴り始めた。
激しい痛みに、秋臣は体をエビのように丸くした。街路灯が男たちの残酷な笑みを浮かび上がらせ、細い雨が口にも目にも入ってくる。
「小遣いもらっとこうぜ」
男が秋臣の財布に手をかけたその時、その体が大きく揺れて、地面に横倒しになった。
「てめえら、どこの組のもんだ! 俺のシマを荒らしやがって」
 巻き舌のドスの効いた声が頭の上から落ちてきた。声の主の安っぽいアロハシャツの袖から龍の刺青が見え隠れしている。
「お、おい、行こうぜ」
 男達は後ずさりして脱兎のごとく走り去った。雨音を縫うように靴音が遠ざかっていく。
雨空をぼんやり見上げた秋臣の視界に、若い男の顔が入り込んだ。
「おじさん、生きてる?」
 街路灯の明かりを背中に受けて影絵になっている男の表情は見えない。薄れゆく意識の中で、刺青の龍の目が迫ってきた。

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