「チェリまほ」にはまった作家のひとりごと 第9話

チェリマホに心を掴まれる理由はいくつかあるが、まずその一つは黒沢君と安達君の恋が稀に見るピュアなものだということだろう。
「ピュア」と言っても、肉体関係がどうのこうのではない。
肉体関係がなくても全然ピュアでない関係もあれば、その逆もある。
つまり、私が言う「ピュア」というのは、「想いの純度」のことだ。
まじり物のなさ、余分なもののなさ、想いの純度が高いという意味でのピュアが、心を打つのだと思う。
二人は、純粋に与え合う関係だ。二人が与え合うものの全ては「愛」という、形のないものから出て、そして「愛」に帰着する。
怪我の手当てをしてあげることも、ピンチを救うためにモンブランを買ってくることも、相手を思って身を引こうとすることも、一刻も早く想いを伝えるために必死で走ることも、美味しい朝ごはんを作ることも、すべて愛から出た行為だ。そして愛に帰るだけで、完全に無償の行為なのだ。奪うことも、押し付けることもない。黒沢君は七年間も安達君のことを想っていたのに、安達君の負担にならないように、心の中にしまいこんで、告白した後も押し付けようとはせず、諦めようとさえした。
相手のことを第一に考えて、「己」は二の次なのだ。これは仏教やキリスト教の根幹を為す「利他」「慈愛」に他ならない。
このドラマの中には、二人の、相手に与える無償の愛がそこここに散り敷いてまばゆいばかりだ。
見目麗しい、そして愛に溢れた心優しい青年二人が、慈しみ合い、微笑み合う姿の、何と美しいこと!
私自身の「恋の季節」はとっくの昔に過ぎ去ってしまったけれど、純度の高い恋物語に心を打たれる感性はまだ鈍くなってはいない。
昔読んだ本の中にこんな言葉があった。
「愛の強さの一位は母の愛、その次が男女の愛、三番目が父の愛」
 その時私はすごく納得したし、今でもそれは正しいと思っている。では、その基準で言うなら、黒沢君と安達君の愛はどのあたりにランク付けされるだろうか。私の独断と偏見で言わせてもらうなら、母の愛と男女の愛の中間だと思う。つまり、両方の要素を含んでいるので、1,5番目だ。
「ピュア」であるということは、そこに愛以外の「おまけ」がついてこないという意味でもある。それは「同性同士」のカップルの特別性の一つと言えるだろう。
 異性同士の恋には「結婚」という、ある種の完結があるが、同性同士の恋には、スタートはあるが、そういう形での完結はない。
したがって、異性同士の結婚に自動的についてくる付属品(同居や扶助の義務、貞操義務、相続権、財産分与請求権などなど)も、同性同士のカップルにはついてこない。少しずつ法律も変わりつつあるとは思うが、男女の結婚と全く同じようになるのにはまだ時間がかかるだろう。
親に孫を見せてあげることもできないし、互いの家族のお祝い事に出席するために有給を取るのも難しいだろう。
だけど私自身、長い結婚生活を振り返ると、夫との関係を維持してきたものは、互いに対する「愛」以外のものだけだったなあとため息をついてしまう。親としての義務、親族、慣習、惰性、世間体、そういうものだけで、ここまで続いたのだ。
こんなピュアとは対極にある純度の低い不透明な関係しか築けなかった私には、黒沢君と安達君の恋が光り輝いて見えるのだ。
純度の高い恋は、心を浄化する力があるように思えてならない。
スマホで隠し撮りするなんて、写真を撮れただけで嬉しいなんて……。
仕事中に、無意識に笑顔になっちゃうなんて……!は〜…(ため息)。
 そんな素敵な恋なんて私には無縁だったけど、ドラマのおかげで、黒沢君と安達君のおかげで、ピュアな恋のおこぼれを美味しくいただいてます。感謝!

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