再会

第十三章

 目印の百日紅の大木は枯れ木のような枝を寒々と伸ばしていた。この木を初めて見たあの日は、まだ群がり咲く花の蕾が初々しく開花し始めたところだった。目がさめるような鮮烈な紅色がまざまざとよみがえる。
 二階の角部屋には灯りがついていなかった。叶人はもうここに住んでいないかもしれない。
 秋臣は木の下に佇んで鈍色(にびいろ)の空を見上げた。肩にも胸にも雪片が舞い落ちて一瞬で消えてしまう。低い空から振り落ちる雪は勢いを増し、止みそうにない。さっきまでのサラサラした粉雪がしっとりと水分を含んだ綿雪に変わった。
 秋臣のまぶたの中で、叶人の不器用な笑顔が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
 会いたい……。その一心で来てしまった。
 会って何を話すのか、会ってどうしようというのか、それさえわかってない。ただ会いたかった。
「あと五分だけ待って帰ってこなかったら、帰ろう……」
 何十回目かの「あと五分だけ」を、秋臣はまた繰り返した。腕時計を見ると、十時を回っている。きっともう叶人はここにはいないのだ。あと五分だけ……あと五分だけ待ったら、きっと踏ん切りがつく。諦めがつく。
 会いたい。会いたい。会いたい……。
 雪は降り止まず、いつの間にか牡丹雪に変わっていた。
 秋臣は降り落ちる雪を見上げて叶人との出逢いと別れを反芻(はんすう)した。
「僕の息子になって下さい」
 あの言葉から始まり、もうすでに終わった関係なのに、なぜまた初めからやり直せると思ったのか……。無我夢中で叶人のアパートまで来てしまった自分が惨めで、情けなかった。
 腕時計の秒針がゼロを指した。とうとう最後の五分が終わった。
「帰ろう……」
 自分に命じるように声にして、車の方へと歩き出した。秋臣は一度だけ叶人のアパートを振り返った。帰りたい家を持たない身にとって、今年最初の雪はことさらに冷たかった。
「遠坂さん?」
 呼びかけられた声に振り向くと叶人が百日紅の木の下に立っていた。
「遠坂さん……」
 まるで迷子になった幼な子が親を見つけた時のような顔に、秋臣は胸を突かれた。
「叶人!」
 秋臣は叶人に駆け寄り、骨も折れんばかりに強く強く抱きしめた。
「叶人、叶人……」
 どうしてこんなにも長い間別れていられたのか、どうして別れて生きていけるなどと思ったのか。秋臣はその空白を埋めるかのように叶人の髪や背中をもの狂おしく撫でさすった。ほんの一瞬でもその体から手を放したくなかった。
 秋臣の腕の中で叶人が長い息を吐く気配がした。
「俺をもう捨てんなよ」
「絶対に捨てない。一度も捨ててなんかいない」
 湿った息が秋臣の首筋を撫でた。
「俺も遠坂さんのこと捨てない。何があっても、何もなくても絶対捨てない」
 叶人の手が秋臣のコートを握りしめた。
 「愛ってさあ……捨てないことだよ」
 その頭を抱え込んで髪をくしゃくしゃにしながら、秋臣はこの幸せが唇から漏れるのを惜しむように細い息を吐いた。
「愛してる」
 この一言を言うために、なんと長い遠回りをしてしまったことだろう。秋臣の胸の中で、叶人がいなかった空虚な日々がじんわりと癒されていく。
「帰ろう、僕たちの家に」
「おばあちゃんと暮らしたあの家?」
 叶人の顔がパッと輝いた。
 秋臣は微笑みながら深くうなずいた。
 
「ただいま」
 玄関に入ると、叶人は誰かに呼びかけるように呟いた。そして懐かしそうにあたりを見回した。
 秋臣が台所のガスレンジに湯をかけ、コーヒーをいれたところへ、叶人が寿美子の部屋から出てきた。その目元が赤くなっている。
 秋臣は心の中で叶人に語りかけた。
「今日から君は僕の家族だ。この先何があっても­­絶対に僕は君を捨てない。だけど君は僕を捨てていいんだよ。僕が老いて体が動かなくなって、君の事も分からなくなって、君に何もしてあげられなくなったら、僕を捨てて欲しい。そして新しい人生を歩いて欲しい。君に望むことはたった一つだけ。幸せでいて欲しい」
 しかしその想いはいつかその時が来るまで胸にしまっておくことにした。秋臣はただ幸せ過ぎる時間に身をゆだねた。
「この家でずっと暮らしたいな……」
 叶人越しに常夜灯に照らされた庭が見えた。もう地面には雪が積もり始めているだろう。きっと明日の朝には、世界が真っ白になっているに違いない。家族になった二人の一日目に、雪景色はなんとふさわしいのだろう。
 秋臣はガラス戸の外を音もなく振り続ける雪がやまないことを願っていた。


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