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なぜ「里の縁日」をつくるのか(自分に向けて#03)

吾唯足知
われ ただ たる(ことを)しる

私の父は59歳で他界した。
膵臓癌が見つかった時にはすでに手遅れで余命3ヶ月と診断された。
父は、医師からの告知を受け入れ、「最後の瞬間まで親父の生き様を子供達に見せる」と言っていた。

そんな父がある時、この蹲踞つくばいと同じデザインを筆で描き始めた。
吾唯足知 われ ただ たる(ことを)しる

その時の私は、この文字がどういう意味なのか深く理解せずにいた。

あの時の父の心境を思いはかるようになったのは、父が他界してから13年も経ってからだ。

きっと父は、命の期限が迫る中、自分の人生が満ち足りていたことを改めて深く感じたに違いない。そして、自分は全てを手にしていた。幸せだった。満足だった。ありがとう。と言いたかったのだと思う。

思えば、父が他界してからというもの、たくさんの葛藤、劣等感、重圧の中で生きてきた。
父と同じくらいの技術を持とう。父と同じくらいの包容力を持とう。父が愛した人たちを父と同じくらい愛せるようになろう。四代続く家業をもっと発展させよう。みんなを養うためにもっと頑張らねば。

とにかく、もっと頑張ろう。さらに認めてもらえる人になろう。さらにもっと、上を目指そう。もっと、もっと、もっと、もっと。

きっと、高度経済成長期の日本も同じような感じだったのだろうと思う。
さらに良くするには。成長だ!拡大だ!もっと上にいくぞ!もっと進むためには!もっと早く!まだまだ出来る!24時間戦え!

いつになったら満たされるのだろうか。
いつになったらゆっくり休めるのだろうか。
いつになったら安らぎが訪れるのだろうか。

私自身も心のどこかで、そんなことを考えながら日々を必死で生きてきた。
これさえ乗り越えれば、ゆっくり過ごせる日が来る。もうひと頑張りすれば、落ち着いてゆっくり休める時が来る。この問題を解決すれば、不安はなくなり安らぎが訪れる。
だから、もっと頑張れ、自分。

私と同じような日々を送っている人はたくさんいるのではないか。
今頑張っている目的は、幸せになるため。笑顔になりたいから。
"幸せになる"という目的のために、顔を歪めながら毎日歯を食いしばって頑張っている。

何かがおかしい。
とても不自然なことだ。
不自然なことは長くは続かない。

でも、その不自然さに気づくことなく、息つく暇すらなく頑張っている人がいる。自分も同じだ。

そろそろ、人は、この道の先に本当の豊かさがあるのかどうか考えなければならない。いや、もうすでにそういう時代のど真ん中だ。

幸せは、この道の先にあるのではなく、この道の周りに既にある。
深呼吸して、景色を眺める余裕を持とう。
慌てて走らなくていい。
この先は歩こう。


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