連葉 その八

 楓の木が一本、描かれていた。決して見事な木ではない、どこにでもあるような木。しかし、その絵からは絵描きの木に対する愛情が溢れ出しているようであった。絵描きはちょうど掌のような特徴的な形の葉を枝にバランスよく描き足していた。大きな葉、小さな葉。綺麗な葉、虫に食われた葉。一枚、また一枚、葉が増えてゆく。その様を見ていると旅人は僅かも退屈しなかった。若い絵描きは幸せそうに微笑みを絶やさずに、時折鼻歌を交えながら鉛筆を動かした。
 絵描きは満足げに一つ頷くと鉛筆を仕舞い、今まで自分が背を預けていた方に向き直った。
「とうとう君の絵が完成したよ。この町で最後に君の絵が描けて良かった。もう随分と君の傍で絵を描いてきたけど、これでお終い。決めたよ。明日、僕はこの町を出る。しばらくは絵も描かない。僕は仕事でもいくらか絵を描いてきたけど、全然面白くなかったんだ。だから、もうそんなことはやめにして、知り合いの住んでる町に行こうと思うんだ。そこで、新しい生活を始めるんだ」
実体を持たない絵描きの姿が、いつの間にやら出ていた月の灯りに照らされていた。影は、無かった。
「僕はここで絵を描くのが本当に幸せだった。僕だけの世界に浸れた。いつか行ってみたい国とか、昔に見た懐かしい場所とか、空想上の町とか、そんな景色を思うままに描けた。
 でも、本当はね、僕、このスケッチブックに描いたたくさんの絵を誰かに見てほしかったんだ。僕はこんな景色を見たんだ、とかこんな場所に行ってみたいんだ、こんな世界、素敵じゃないかな、ってことを誰かに知ってもらいたかった。もしもそれで、素敵だねって言ってもらえたらどんなにうれしいことだろう。今でも僕は誰かに、たった一人にでもいいから、そういって欲しいなって思ってる。
 でもね、僕はそれ以上に怖いんだ。自分に才能がないのは分かってる。それなのに、心のどこかで傲慢な僕がいてね。お前には才能がある、認められるべきだって言うんだ。そんな声、聞きたくないのに」
 絵描きの声は震えていた。
「この町で何度か、絵のコンクールが開かれたんだ。その度に僕は自分の作品を出してみたい衝動に駆られてね。ありえないけど、もしかしたら僕の絵が入選するかもって思ったし、そうでなくても、もしかしたら誰かが、僕の絵を見て、ほんの少しでも、感動してくれるかもしれないって。思ったんだ。
それでも結局、自分の絵をコンクールに出すなんてこと、僕にはできなかった。つまりね、臆病なんだよ。僕は。もし、僕の絵が誰にも見向きもされなかったら、つまらないって、くだらないって言われたら、絵が下手だって笑われたら、どうしよう。そんなものを僅かの傲慢のために大勢の人に知られてしまったら、どうしよう。それは当然なんだけど、でも僕自身が自覚していると思っていることの、本当の裏付けをされてしまうみたいで僕はそれが怖くてたまらない。意気地が無いんだよ、僕は」
絵描きはそこまで言うと俯き、肩を震わせて、黙ってしまった。旅人は先程彼の絵を覗き見たことを後悔しながら、その背を眺めていた。絵描きがゆっくりと顔を上げた。
「しょうがないよね、僕も。最近ね、今までよりも一層、誰かに僕の絵を見せたいんだ。でも、やっぱりとても怖い。嗚呼、情けないんだけどね」
絵描きはまた黙ってしまった。
「でも、最後にね、君には見てもらいたいんだ。僕が君の傍で描いた全部の絵を」
そう言うと絵描きはスケッチブックを改めて開き、その初めの頁を楓の方へと向けた。
「まず、これはね、僕の生まれた町。海辺にある町でね、ほら、港に船がたくさんあるだろう。お昼になるとね、この辺に猫がいっぱい集まってくるんだ。漁に出ていた船が港に帰ってくるのを待っているんだよ。漁師さんが小さい魚なんかを捨てるから、それを食べようと集まってくるのさ。そうだ、猫たちも、もっとたくさん描いておけばよかったかな。あ、そしてね、ここに大きな坂道があるだろう。ここがこの町で一番の大通りでね、この脇にたくさん並んでる建物、これは全部何かのお店なんだ。一日中賑やかで楽しいんだよ。実は記憶を頼りにして全部、何の店か分かるように描き分けてるんだ。例えばほら、この店なんかは肉屋なんだけどね、ここのところにある看板がさ、牛の形になってるんだ。ちょっと小さく描きすぎたな。あ、それで、向かいのこの店はね、」
旅人には絵描きの背中しか見えていなかったものの、スケッチブックを指さしながら絵について語る、彼の活き活きとした表情が手に取るように分かった。

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