葉 その二十二

 訳あって、私は某県を訪れることになった。用足しの前日、私は予定より二時間も早く宿に着いてしまった。案の定、入れてもらえなかった。止む無し、周囲を散策するより他なかった。
 人口の少ない県とはいえども、食事処は多かった。県庁所在地であるゆえだろうか。ファミリーレストラン、寿司屋、ラーメン屋、ステーキハウス。種々雑多、様々な看板が見られた。しかし、昼食にはまだわずかに早く、どの店にも客の姿は少なかった。人の多い中で食事をすることが私にとっては何よりの苦痛であったから、少し早めに昼食を済ませてしまおうと考えた。
 しばらく歩いてもなかなか私の心を惹く店は無かった。朝食を食べ損ね、長旅に疲れていた私はつかれた体を引いていつの間にか大通りから離れてしまった。一度、ソープランドの客引きについて行きそうになった。昼からやっているものなのだと新たな発見。
 そうこうしている間に昼食時になってしまった。もはや何か食べられる店ならどこでもよかったのだが、やっと見つけても「本日休業」の看板が掛けてあった。無念。やっと見つけたのは小さな中華料理屋だった。硝子戸は汚れていて、中は薄暗かったが、営業しているようであった。スーツの中年男性が出てきた。一寸顔をしかめている。ちらと見えた店内はどこか昭和の香りを感じさせた。
 「いらしゃいませ」
流暢なニホンゴで店主が挨拶した。背の低い、六十がらみのその中国人店主が「スミマセン」と言いつつ水を持ってきた。店主は足が悪いのか妙な歩き方だった。私は壁に貼られているメニューを見た。高くもなく、安くもなく。別段珍しい品もなかった。
「すみません」
「ハイ」
「拉麺と餃子を」
「ハイ、お待ちください。スミマセン」
店主は厨房に向かうと鍋で面を茹で始めた。丼にタレを入れ、面を茹でている鍋から掬った湯を注いだ。透き通った茶色のスープができた。しばらくすると店主は茹で上がった麺を丼に移した。そこでふと手を止め、奥へと引っ込んだ。業務用の大きな冷蔵庫から餃子の入ったバットを持ってきた。そこから持ち手に幾重もの鮮やかな紐の巻かれた中華鍋へと油と餃子を入れて約始めた。再び拉麺に向きなおると、自家製らしい焼き豚とメンマ、それからナルトと葱を乗せた。出来上がったそれを手に、チョコチョコとこちらへ持ってきた。
「ハイ、拉麺です。スミマセン。餃子はもうすぐです。スミマセン」
慌ただしく厨房へ戻るとすぐに餃子を上げ、皿に盛り、再び「スミマセン」と共に持ってきた。私の他に客もおらず、店主は引っ込むと少し落ち着いて厨房の奥で洗い物を始めた。
 目の前の拉麺はいかにも拉麺らしい拉麺であった。餃子は小ぶり。麺をすする。なんということもない味。少しスープの味が薄く、不思議な香りがした。焼き豚をかじってみると不思議な香りの元がこれだと分かった。良い味だった。しかし、総じてなんということもない味だ。恐らく十人に食べさせてみたところで目を見張る者はいないだろう。油でべた付いた瓶から小皿に餃子にタレを注ぐ。つける。一口。芯がぬるかった。タレに店主が勧めた琥珀色の油を垂らしてみた。一口。仄かに生臭い香りがした。

 なんということもない味の拉麺と餃子。しかし、私にはこれが(決して侮蔑の気持ちではなく)店主の人格が反映された本当の料理に感じられた。満足だった。

「ごちそうさまでした」
「スミマセン、ハイ、七百円です」
「じゃあ、千円で」
「ハイ、スミマセン。お釣りです」

もう一度「ごちそうさまでした」と言い、店を出た。薄暗い店の奥から「スミマセン、ありがとうございました」

 私は夕食もここで食べることに決めた。麦酒も注文するつもりだった。

 日の暮れ方、店の前に立ってみると「本日はお昼で終了しました」の張り紙。残念。結局、チェーンのラーメン店で美味いだけのラーメンを食べて、某県を後にすることとなった。今でもあの店はあるだろうか。

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