2024.1.17

 先日、神戸・三宮の東遊園地で行われた「阪神淡路大震災1.17のつどい」に参加したので、その時の話をまとめます。


午前2時

 静まり返った深夜の大阪・柏原、この日の最低気温は1℃。きっと夜明け前の神戸も同じくらい寒いだろうと思い、できる限りの防寒をして静かに自宅を出発しました。

 もちろん電車などあるはずもなく、後輩が最寄り駅までレンタカーで迎えに来てくれました。彼が今回の同伴者です。一緒に来てくれたことに今も心の底から感謝しています。

 柏原を出発すると、極端に車通りの少ない国道25号線を北西に向かいます。いつもと違う様子に驚きながら進み、車はあっという間に大阪市内に。天王寺、弁天町、西九条を過ぎ、淀川に架かる大きな橋に差し掛かると看板には「尼崎」の文字が。いつの間にか周りに現れていた数台の大型トラックとともに数本の橋を渡り、兵庫県へと入っていきます。


午前3時

 大阪府内では他愛もない会話で盛り上がっていた車内でしたが、「兵庫県」の文字を見てから少し緊張が走りはじめました。二人とも"つどい"に参加するのは今回がはじめて。いったいどんな景色が広がっているのか。徐々に近づく未知の世界を前にして、期待と不安が入り混じったやや重めの空気が車内に流れます。

 尼崎からは阪神電車と並行する浜手幹線を西に向けて走ります。武庫川を越えると、車は西宮市に突入。程なくして西宮の市街地が見えてきました。市内中心部にある西宮市民会館は、来年1月に自分が代表を務める「NEW-S Wind Ensemble」の演奏会の会場です。今回私たちがつどいに参加するのは、震災に関連した作品をこのNEW-Sで取り上げることがきっかけでした。

 あえて兵庫県内の演奏会で震災に関連した作品を取り上げる。そのために自分たちが知らないといけないことを知る、これが今回の目的です。西宮の街を見て、自分たちがなんのために神戸に向かっているのかを徐々に思い出し始めました。隣の芦屋市に入る頃には、緊張は消えないものの、車内の重かった空気が決意のようなものを含んだ前向きな空気に変わっていました。


午前4時

 相変わらず車通りの少ない道路。芦屋市をあっという間に通過すると、車はいよいよ神戸市に入ります。信号に書かれた「深江」という地名を見て、ある1枚の報道写真を思い出しました。それは、高速道路の高架が数百メートルにわたって横倒しになっている、衝撃的な光景を収めた写真。

 自分たちの走る浜手幹線のちょうど真上、高架になっている阪神高速3号線は、あの日の激震に見舞われ、この地域で数百メートルにわたって崩壊したのです。原因は高度経済成長時代の手抜き工事だったそうですが、無惨に崩れ去った人工物の姿は、圧倒的な自然の力を前にした人間の無力さの表れのように感じました。

 あの写真が撮影されてから29年。市民によって作られた人工物はより強固となり、再び街を埋め尽くすようになりました。そこには、あの日の悲しみ、怒り、犠牲者への誓いが込められ、過去の経験を生かした技術が集積されていることでしょう。しかし、それら最新の技術をもってしても自然の力には敵わないということを、私たちは今年1月にも能登半島地震で思い知らされました。

 過去の経験は技術に反映するとともに、人間の考えや行動にも繋いでいかなければ意味がありません。ハード・ソフトの両面の防災が求められる今日、被災者の経験なしにここまで生きてきた自分にできることはなにか。その結論がこの日、自分を神戸まで連れてきました。

 ここ数ヶ月で自分が読んできた震災関連の本の数々、それらに書いてあった地名を答え合わせするかのように、次々と流れる看板の地名を眺めていきます。東灘、灘の町並みを通り抜けると、いつの間にか正面にはわずかに明かりのともる高層ビル群が。目的地の三宮まで、もうあと少しです。


午前5時

 道路が空いていたこともあり、予定よりも少し早く三宮に着きました。海沿いのコインパーキングに車を止め、会場に向けてゆっくりと歩き始めました。

 凍てつくような寒さ、太陽はまだその気配すら見せません。29年前の1月17日も同じくらい寒かったのだろうか。そんなことを考えながらしばらく歩いていると、「阪神淡路大震災1.17のつどい」の会場の東遊園地に到着しました。

 まず私たちが立ち寄ったのは「瞑想空間」と呼ばれるレンガ造りの施設。細く曲がりくねった通路を進んでいくと、突然視界が開け円形の空間が現れました。壁には一面、震災の犠牲者の内5035名の名前が書かれた銘板が掲示されています。私たちが訪れたとき、施設内には10人ほどの人の姿がありました。中には遺族と見られる方が銘板の名前に手を当てている姿も。「まだ震災は終わっていない」、そう強く思わされた時間でした。

 瞑想空間を後にし、敷地内中央の芝生広場に向かいます。入口に立つと、見渡す限り何百人もの人影が目に飛び込んできました。ただ祈りを捧げるために集まった人びと、それは信じられないくらい静かな集団でした。同じ場所に何百人もいるとは思えない、今までに経験したことのない静かさでした。

 広場の中央には、人びとに囲まれて約7000個の灯籠が並んでいます。灯籠が象るのは「1995」「1.17」の数字、そして「ともに」の3文字。公募で決まったこの「ともに」という言葉には、能登半島地震を受けて「一人ではない」「共に助け合おう」との思いが込められているとのこと。

 「明かりのついていない灯籠に火をつけてもらえませんか?」スタッフの方から声をかけられ、一本のろうそくを手渡されました。見ると参加者は皆このろうそくを手にして灯籠に明かりをつけています。自分もそれに倣い、少し手こずりながらも一つずつ明かりを灯していきます。

 いくつもの灯籠の火が生み出すあたたかさ、それらを感じながら、自分がちゃんとこの場に溶け込むことができていることに安心しました。

 神戸にルーツのない、しかも震災後に生まれた人間である自分は、どこかこのつどいの場に入っていくことに違和感を抱いていたのかもしれません。いわば「よそ者」の自分が本当に参加してもいいのか、そんな不安を会場の静かなあたたかさが打ち消してくれました。祈りを捧げるために来た人ならどんな人でも拒まない。そう会場の雰囲気が言っているような気がして、静かに感動していました。

 5時半を過ぎ、灯籠のほぼ全てに明かりがつくと、会場内にアナウンスが響きました。「まもなく地震発生時刻の午前5時46分を迎えます。灯籠近くの方は、会場にいる皆様や映像でこのつどいを見ている全国の方々に灯籠の火が見えるよう、少し離れてしゃがんでいただきますようご協力をお願いします。」声に反応して静かに後ろに下がりしゃがむ人びと。私たちもそれに続きます。

 そしてしばらくして、つどいの実行委員長が話し始めました。


1995年1月17日午前5時46分 阪神淡路大震災

震災が奪ったもの
命 仕事 団欒 街並み 思い出

たった1秒先が予見できない人間の限界・・・

震災が残してくれたもの
やさしさ 思いやり 絆 仲間

この灯りは 奪われた すべてのいのちと

生き残った わたしたちの思いを むすびつなぐ 


 実行委員長の言葉が終わるとすぐ、時報が流れ始めました。無機質な電子音と女性の自動音声が静かな会場に響きわたります。今まで何度もニュースで見てきた光景の中に自分がいる、そう改めて実感しながらその時を待ちます。

そして…


午前5時46分

 「黙祷」


 目を閉じ、手を合わせました。全員で、ただ祈りを捧げました。あのとき、あの場所はこの世で一番静かな空間だったと思います。身体に伝わってきたのは、灯籠の火のあたたかさと周囲の人びとの気配だけ、ただそれだけでした。

 「お直りください」、その声に顔を上げ、立ち上がる人びと。何人もの鼻をすする音がそのとき、ようやく聞こえてきました。


 遺族代表の言葉は、震災で母親を失った男性。男性は当時、母親と兄と3人で住んでいた母子寮で被災。母親が亡くなったあと、兄は別居していた父親が引き取り、男性は児童養護施設に預けられ、たった5歳にして独りぼっちに。その後は施設職員の方々に見守れながら成長するも、家族は依然バラバラのまま。大人になってから父親の行方を探すと、孤独死していたことが判明したとのことです。

 あまりにも辛い過去を涙ながらに必死に語り続ける男性。その声が胸に突き刺さります。「震災は終わっていない」、瞑想空間で感じた思いが再び蘇ってきます。

 その後、男性は数ヶ月前に兄と再会。「私は今日、初めて兄と二人で母親の墓参りに行きます。」長い間苦しみ続けた遺族の痛切な声。「29年間止まっていた家族との時間が、今日、再び動き始めます。」10分近く続いた男性の言葉の後、しばらく言葉が出ませんでした。


午前6時

 遺族代表の言葉のあと、実行委員長、市長、市議会議長の挨拶が続き、一連の行事が終わりました。周囲の人びとと一緒に東遊園地をあとにします。にわかに空が白み始めた6時過ぎ、周りを見渡すといろんな人がいることに気づきました。高齢者、スーツ姿のサラリーマン、自分よりもはるかに若い子どもたち。しかし、歳は違えど帰路につく人びとの顔は全員同じ表情でした。そしてきっと自分もそうだったと思います。

 車に戻る途中、フェリーターミナルにトイレを借りるため海の方へと向かいました。東の方角に見えてきたのは三宮とポートアイランドを結ぶ神戸大橋。早朝のアーチはようやく姿を現した朝日に照らされ、数々の車を対岸に送りながら堂々とそびえ立っていました。

 「たぶん自分のしてることは間違っていない」。眩しく光る海と橋を見ながらなんとなくそう感じ、後輩の前で一人、言葉を口にしました。つどいで見たこと、聞いたこと、感じたこと、それらは自分の知らないものばかりでした。でも、それらから自分のやろうとしていることが否定される気はしませんでした。それどころか、「やる意味があると思う。」どこか後押しされている気すらするのです。

 終わらない震災に向き合う。そして、遺族の方、震災の傷跡に苦しむ方、今も被災者として暮らす方、そういう方々と「ともに」新しい社会を歩んでいく。これから自分にできること、しなければならないことを、なんとなく見つけられたような気がします。

 2024年1月17日、忘れられない朝を過ごした私たちは、再び車に乗り、静かに東へと帰り始めました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?