緊張する家 〜人んち編〜
先日あげたブログで、友人からこんなメッセージが来たため、そういえば…と思うことを綴ろうと思う。
以前あげた記事⬇︎
すぐ片付けられちゃう家
友人の話によると、友達の家に宿泊した際、まさに潔癖ハウスだったらしく、お金払ってでもホテルに泊まった方が気楽だったとのこと。
ゴミ箱まで収納されていて、鼻を噛むのもいちいち気を遣ったり、さっきまであったお風呂のゴミ箱が使用後に撤去されていた…とか。まるで常にキレイな、あの千葉にある遊園地のよう。
これじゃあ落ち着かないし気を遣うね、というやりとりをしているうち、そういえば私も以前はそうだったのかもしれないと反省した。
家は、私が作った作品
その友人の話は、昔の私と重なった。何故ならその友人の友達の心理がちょっとだけ分かる。
私の場合は、家が「作品」だったと思う。
デザイナーとかクリエイター、アーティスト気質な人は特にそうかもしれない。
自分がこれまで熱を注いで作り上げてきた「作品」がたまたま自宅であり、
"お客様におかれましては
「作品にお手を振れないでください」"
状態になっていたと思う。
そういえば美術館やギャラリーは、その世界観をより楽しめるように、決して作品以外に目立つモノは置いていない。
内装の色は統一され、選び抜かれたスタイリッシュなデザインの物を置き、いつでも写真が撮れるような空間にしてある。それはホテルやお店のような商業施設であっても同じである。
そういった場所は、非日常を味わえるからオシャレでいいのだ。そしてそこのスタッフさんがいるから、散らかしてもさほど気を遣わないのである。
インテリアにこだわりすぎると住みづらい件
自らが選び抜き、美しさを維持し、こだわり抜いた完璧な空間でいきなり、赤や紫などの下品なパッケージの物があるだけで、作品の完成度が落ちてしまうような感覚になる。
特にハロウィンの色遣いが嫌で、ビビットなオレンジと紫という何とも下品な組み合わせは(主観ですごめんね)一気にモノトーンインテリアがゴチャついて見えるようになるから不思議だ。
そしてインテリアにこだわり出すと、コストがかかる。ティッシュひとつにしても、何かしらカバーをかけたり、オシャレなモノを選ばなくてはいけない。オシャレは我慢なのは家も女性も同じなのである。
オシャレなものは、今でこそ100均にもあるものの、目が肥えてくるとそうはいかなくなる。マガジンラックが8,000円したとしても、とにかくそのデザインが優れていたならば、買ってしまうのが「こだわる」なのだと思う。
私は「いいものを長く」がモットーなのだが、インテリア雑貨に関しては、高ければいいわけではないと最近気付く。
「いいもの」で「使い続けられるもの」がずっと使い続けられるものになるのだ。
美術館に住んでいるわけではない
私たちは美術館に住んでいるわけではないし、旅館に住んでいるわけでもない。そこで生活をしているのだから、生活感はある程度必要だ。
逆にあまりに散らかっていても落ち着かないし、集中力も欠ける。ちょうどいい家のバランスを取るのは、難しい。
だからこそ私たちの片付けサポートの際には、変化を絶妙につける(変えすぎない)ことが大切なのだ。
美術館では眠れないのである。
緊張する家に住む人
お姑さんが厳しい、配偶者が厳しい、という家のルールに対して厳しい人がいると、一緒に住む家族は緊張する。
家を散らかすからお前はダメなんだ
うちの嫁は掃除が苦手で
そんなことは耳にタコができるほど聞いてきた。
私も誰かに対してそうだったかもしれない。家を汚す、インテリアを崩す人は悪であり、綺麗が正しいという正義によって人間関係をギクシャクさせることは珍しくない。
緊張する家には「行かない」が正解。
外で会うといい人なんだけど、家に行くと人が変わる人がいる。綺麗好きすぎたり、神経質すぎたり、それを他者に求めたりすると相手はきゅうくつに感じてしまうのである。
そんな人の家には、行かない、そして自宅にも呼ばないのが鉄則だ。
キレイ好きは正義ではないので、あたかもキレイ好きが正しいと信じている人とは、カフェでお茶ぐらいでいいのかもしれない。
来客中に片付けをするということは、無言の圧力に他ならないのだから。
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