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78年目の3月10日と、網走の「タコツボ」

私は東京の東部で生まれ育ったから、3月10日と、9月1日はとても思い入れのある日付だ。

9月1日は1923年(大正12年)に起きた「関東大震災」の日で、今年はちょうど100年となる。


1945年(昭和20年)3月10日に日付の変わった深夜、アメリカ軍は東京の下町地域、深川・本所・浅草・日本橋の各区を第一目標として、300を超えるB-29爆撃機を低空にて侵入させ、その数延べ38万発、1665トンもの焼夷弾を投下し、大火災を引き起こし、結果として東京東部から中部の広範囲にかけて、10万人ともいわれる一般人を殺戮した。

当時の日本では、3月10日は「陸軍記念日」だったから、米軍は敢えてこの日を選び、ジェノサイドを行ったことになる。


焼夷弾、とは日本の呼び名で、ベトナム戦争を知る人には「ナパーム弾」と聞く方が理解しやすいかもしれない。

1979年に公開された、フランシス・フォード・コッポラの映画「地獄の黙示録」で、ロバート・デュバル演じるキルゴア中佐が、ベトナムの海でサーフィンをするためにジャングルを焼き払うのに使ったのがナパーム弾であり、油を撒き散らして人や家屋を焼き払う油脂焼夷弾である。

あの椰子の木のジャングルを、密集した木造家屋群に置き換えれば、どれほどの火量が生じたか、容易に理解されると思う。

余談となるが、現在、両国にある江戸東京博物館は、それまであった東京都江東市場の跡地に建てられたのだが、その解体作業中、地下に焼夷弾が発見され、近隣住民の避難や、国鉄(現JR)総武線の運行停止したうえで、自衛隊が除去作業を行ったことがあった。

この焼夷弾は、幸いなことに無事、除去されたのだが、現場の近くで仕事に就いていた私にも、空襲の凄絶さが感じられたものだった。


私の父がよく話してくれたのは、「この空襲は只事ではないと思って、親父(私の祖父)と一緒に必死で家に水をかけ続けた。家のすぐ近くを流れる旧中川の方(本所区の方)を見ると、巨大な火の手が上がっていて、川は火から逃がれて来た人たちの死体で埋め尽くされた。家は何とか焼けずに残ったが、東あずま駅(家から徒歩10分ほどの私鉄駅)の前には、死体が集められ、暫くの間、山積みされていた。山からは人の脂がたくさん流れ出ていた」という話だった。

父は当時、尋常小学校6年だったが、この大空襲の影響で卒業式は中止になった。
その後、30年ほど経ってから、思い出したように卒業式が行われ、父はようやく、参加することができた。その晩、父が嬉しそうに卒業証書の入った筒を持ち、酔っ払って帰宅してきたことを、私は今でもよく憶えている。

また、1995年1月の阪神淡路大震災のときに起きた大火災の映像に父は、「この大火事は、あの時に見たのと同じみたいだ」とも言っていた。
阪神淡路の被害を見て、ただ恐怖していた私なぞには想像もつかない経験だったのだろう。


東京大空襲(下町大空襲、と呼ぶ方が正確なように思える)、その後の4、5月の山の手大空襲などは、死者だけでなく、無数の孤児、離散家族も生じさせた。

私の知人にも、空襲で両親を殺され、その後は親類の家で育てられた人がいる。

戦時中、米軍の空襲に備えて、町のあちらこちらに防空壕が設けられた。

防空壕、と聞いて直ちに、あれか、あそこか、と思い浮かぶ人も今は多くないかもしれないが、私の子どもの頃はまだ、町にある家の奥などに見かけられたものだ。

小さな出入口があって、屋根よりも低く、こんもりとした、暗い「山」のように見えたことを憶えている。

それを思い出したのは、10年近く前、北海道の網走で暮らしていた時だった。

家事や学校のかたわら、無闇矢鱈と網走市内、オホーツク海沿いの道々を歩き、いろいろな景色を見るのが楽しかった。

網走駅や会社や行政機関などが立ち並ぶ地域からは、高台が山に続いていて、長い坂になっている道が何本かある。

ある日、その道沿いにある市立小学校の近くに、穴が埋め戻されたような跡がぽこぽこと数個、並んでいるのが目に入った。

近づいてみると、土を掘った跡だとわかり、傍にある碑文を見ると「防空壕(タコツボ)」と記されていた。

人が一人入るほどしかない、小さな穴だった。

その足で市立図書館に行って調べてみると、網走でも空襲への備えとして、防空壕が作られ、それを市民が「タコツボ」と呼んでいたこと、1945年7月15日、全道が空襲を受け、網走でも14人が殺され、中には列車に乗車中、上空からの機銃掃射で体を撃ち抜かれて殺された人もあったことを知った。

沖縄は言うまでもないが、東京と網走だけでなく、日本中の空に爆撃機が飛び、爆弾や銃弾を落とし散らしていたのだ。

東京大空襲、敗戦から今年で78年が経つ。

前回の東京五輪直後に生まれた私が子どもの頃、周りの大人の殆どは戦争、戦災体験者だったから、空襲などの話は日常のものだった。

しかし今は、私も含めて、殆どの人が戦争、戦災を知らない。

戦争、戦災で殺された人たちには、YouTuberや、この文を書いている私のように、自らの心や気持ちを伝える手段がない。

公開中の映画「ペーパーシティ 東京大空襲の記憶」をつくったオーストラリア人であるエイドリアン・フランシス監督は
「歴史上、最も破壊的な空襲の記憶が忘れ去られようとしていることが不思議に思えました」と言う。

そのとおりなのだろう、と感じる。
この監督や私のように感じる者の方が、絶対的に僅かだとはわかっている。

しかし、せめて、3月10日に大空襲があって、無数の人たちが亡くなり、たくさんの孤児たち、孤立した人たちが生み出されたことを忘れはするまい、と改めて思うことにしたい。

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