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宗教教育ってもしかしたら現代だからアリなのかもしれないと思う今日この頃

○ 学校教育法施行規則(昭和二十二年文部省令第十一号)(抄)
第五十条 小学校の教育課程は、国語、社会、算数、理科、生活、音楽、図画工作、家庭及び体育の各教科(以下この節において「各教科」という。)、道徳、外国語活動、総合的な学習の時間並びに特別活動によつて編成するものとする。
私立の小学校の教育課程を編成する場合は、前項の規定にかかわらず、宗教を加えることができる。この場合においては、宗教をもつて前項の道徳に代えることができる。

こんな話がありますね。

もちろん、宗教教育ということで私学に限った話になってしまうのですが。

宗教系の私学ということでパッと思いつくのは、もしかしたらキリスト教系の女子校みたいな方も少なくないのではないでしょうか。

小説その他の作品の舞台として「ごきげんよう」と挨拶をするような学校があったりする影響もあるのかもしれませんね。

もちろん、宗教はキリスト教だけではなく仏教系もありますし、女子校に限った話ではありません。

私自身は実際には幼稚園が(少し)キリスト教に寄っていたのと、祖父母がキリスト教だったこと、高校時代の親友の1人も洗礼まで受けていたりするという背景がある程度なのですが、ちょっと今日はこのあたりの話をベースにしていきたいと思います。

もちろん、どこまで学校教育に生きるのか活かせるのかはわからないんですけれども。

1.ただそこにある絶対的な考え方

私が大きく感じているのは、そこに何らかの絶対的な価値観のようなものが存在しているというところなんだと思います。

昨今の社会情勢を顧みると、情報化も進み、利便性が著しく向上しました。

良きにつけ悪しきにつけ、他者の様々な行動とその結果(?)を情報として手に入れることができるようになったとも思います。

世の中でこんなのが受け入れられているのか、とか、こうやって反論されているのか、とか。

議論のスピードも上がっているように感じます。

あとは、社会背景としても責任の所在に対して厳しくなっているようにも感じるんですよね。

もちろん、事実に基づいていろんなものごとは動いていくと思うのですが、情報の拡散が速くなり、対応も迅速に行わなければ炎上したりする世の中になってきているようにも感じます。

もちろん、適切な対応が適切なタイミングでとられることは必要だと思っています。

ただ、スピード化も相まってか、目の前の事実への対応に注力することが増えたようにも思います(言い方が少し変かもしれませんが)。

現実主義が進んだというわけでは有りませんが、そのせい(?)か世の中のなんだかわからないものに対する畏敬の念のようなものが薄れていっているというか、そもそもそんなものを考える余裕がなくなっているというか、そんな感じもします。

そんな折に。

宗教という別の観点の絶対的な考え方に触れるというのは狭まった視野をリセットしたり、広げたりするのに一役買うのではないかとも思うんです。

あぁ、そんな考え方もあるのか、というような。

あくまで一例ですが、お葬式というのはやはり親しい人が亡くなって悲しいものなんですが、キリスト教でいうと「永遠の安らぎを手に入れることであり祝福すべきことと」「故人の新たな旅立ちを祝福する儀式」みたいな祝福という考え方もあるわけです。

賛美歌を歌ったり聖書の朗読をしたりします。

日本のお葬式は(主観ですが)仏教が多いと思います。

「この度はご愁傷様です」とかお焼香とか念仏のような雰囲気ではないんですね。

例に挙げたお葬式はあくまでもその1つですが、折々のタイミングで全く違う考え方に触れられるというのは、少なからず影響力があるのではないかと最近思います。

2.お天道様が見てるという考え方

昔ながらの教育というものがいくつもあったように思います。

近所のカミナリオヤジなんかは消えつつある(消えてしまった?)一例かもしれません。

昨今は社会全体で子どもを育てていくという雰囲気ではなくなってきていますね。

他人の子を叱ると問題に発展するケースも出てきていますからね。

そうなってくると、やはり自分の守備範囲を守るように人の行動も変わってきてしまうのではないでしょうか。

悪いことはもちろんしてはいけませんが、時として悪魔の囁きに耳を傾けたくなってしまうことってあると思います。

良心の呵責の末に正しい行動をとる人が大半だと思いますが、昔の人はよく「お天道様が見てるから」ということを言っていた気がします。

だから何だ、と言われてしまうかもしれませんが、やっぱりそこにはお天道様というものに対する絶対的な価値観(考え方?)のようなものがあったようにも感じます。

繰り返しですが、悪いことはしてはいけません(笑)

が、神様(お釈迦様?)が見てるから、というような、ある種の絶対的な存在によって良心に働きかけることがあるのであれば、それはそれで意味のあることだとも思うんですよね。

特にこの、殺伐としている世の中では‥

おわりに

道徳のテーマの1つでもある畏敬の念。

これを無条件に感じさせられる(?)宗教ってもしかしたらある意味では現代にあうのかもしれないな、と思ってことからつれづれなるままに文章を書いてみました。

もちろん、あくまでも個人が思ったことです。

すでに各校で素晴らしい取り組みをしている学校も多いと思います。

私の周りではたまたまキリスト教色が強めなのですが、本当はいろいろ感じたいと思うんですよね。

仏教のお花祭りとか。

それぞれの宗教にそれぞれの考え方と価値観がある。

共感すればやればいいのだと思いますし、無理にやる必要もないと思います。

1つの「きっかけ」としてはアリなのかもしれないと思いました。

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