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社会の先生じゃなくても憲法を語ろう

 「特別の教科 道徳」において、文科省は「考え、議論する道徳(「道徳」は「修身」の復活を目指したものであり、そもそも「考え、議論する」性質のものではないが…)」を推奨している。本気で「考え、議論する」と、指導要領で誘導しようとしている内容項目からは離れていくが、遠慮はいらない。文科省のお墨付きなのだから、どんどん「考え、議論する授業」を展開すればよい。実は、そうすることで憲法の理念に近づいていく。

 「日本人は自国を誇りに思っている人の割合が少ない」というデータを示し、それへの賛否から議論を始めた。白熱した意見の交換が行われ、最終的に、「自国を誇りに思うのも思わないのも個人の自由であり、強要されるものではない」「誇りに思えるような国を自分たちで作っていくことが大切だ」という方向に向かっていった。

19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
23条 学問の自由は、これを保障する。

 憲法の条文を示し、「なぜわざわざこんなことが書いてあるんだろうね?」と問いかける。「わざわざ書いてあるということは、この憲法ができる前はどうだったってこと?」とさらに問いかけると、かつては思想・良心の自由などなく、政府の方針に反するような学問は許されなかったことに気づく。

 副読本(教科書)も使い方次第で授業に生かせる場合もある。「国際理解」を題材にした資料を範読し、日本に外国籍の人が増えていくことについてどう思うかの議論を行った。そして、日本国内で行われているヘイトスピーチやネット上にはびこる差別表現を紹介した。想像もしていなかった醜悪な現実を知り、子どもたちは衝撃を受ける。

14条 すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

 政府が差別を放置しておくことは憲法14条に違反している。「憲法の権利は外国人にも適用されるんですか?」なんて質問が出てきたら最高だ。次の議論につながり、より理解が深まっていく。


 総合の時間を使えば、さらに系統的な学習も可能となる。
 平和・人権学習の題材として沖縄を取り上げた。映像資料を用いて現実を伝える。沖縄戦の悲惨さ、在日米軍による事件や事故、基地反対運動への弾圧の様子等。事実を知ることで、子どもたちの表情が変わる。憲法の理念とは程遠い現実を知り、自分の頭で考える。

 学活の時間には学級会を多く取り入れている。「給食を早く準備するためにどうするか」など、些細な議題で構わない。多数決で少数意見を封じるのではなく、それぞれが意見を述べ、議論した上で、集団としての意思決定をする経験を積ませる。子どもたちには、「すべての人が満足する結論を出すのは難しいが、すべての人が納得できる議論をしよう」と話している。それが民主主義なのだから。

 民主的な学級作りは非常に面倒で、その過程ではさまざまな問題も起こってくる。確固たる信念をもっていないと、独裁的な手法への誘惑に駆られる。子どもたちを管理・支配した方が表面的な秩序は保たれ、一見いい学級に見える。しかし、それは子どもたちの多様性と考える力を奪う。つまり教育ではない。
 対等な人間として対話し、議論しながら子どもたちと一緒に学級を作っていく中で信頼と尊敬が生まれる。もちろん時には厳しく叱る。叱るべきときに本気で叱らない大人を、子どもは信頼も尊敬もしない。文章化すると何か特別なことをしているように感じるかもしれないが、実は憲法13条に則って子どもたち一人一人を「個人として尊重」しているだけだ。

日常生活や学校生活の中で違和感を覚えることがあったら憲法の条文を見てみるといい。何となくモヤっとすることは、大抵憲法違反だ。それを授業で取り上げるといい。社会科の先生でなくとも、道徳や総合や学活、あるいは教科の中でも、工夫次第で憲法について語る方法はあるはずだ。

「でも指導要領から外れちゃうと…」と尻込みする人もいるかもしれない。
そんな人ほど指導要領を熟読してみるといい。奥歯にものが挟まったような言い回しで、意外と現場の裁量の余地が残されている。考えてみれば当然だ。指導要領が憲法を否定していいはずがない。
そもそも、「憲法について語って大丈夫かな…」なんて考えねばならないこと自体が異常だ。憲法は日本の最高法規なのだ。指導要領に縛られて憲法を語れないなんて、ブラックジョークもいいところだ。

憲法は、愚かな政府によって再び戦争の惨禍を起こさせないために生み出された、先人たちの英知の結晶だ。
憲法がないがしろにされる今の時代。大人として、教師として、憲法を語ろう。それは未来に対しての私たちの責任なのだ。

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