サドの話

サドの世界は、性的であるけれど、そこには、モノとしての人間がある(いる)。

モノである人間は、意志することができない。
意志を持つことができない。
できたとしても、手を伸ばすことができない。

それは、受信器でしかない人間。
それはモノと同然だ。
道具は自分から動けない。
人に使われて、初めて、機能を果たす。
はさみは、人の手の動きによって、刃を紙に噛ませ、人の手によって力を加えられることで、切断という結果をもたらす。それが役に立つということだ。

人がモノのになったら、感じることはできる。痛みに叫ぶ、うずくまる。
快感に身をよじる。うめき声を上げる。

しかし、手を伸ばすことはできない。

それが、意志のある人と、意志のないモノの差だ。

意志のないモノには愛撫の方法すら命令しなくてはならない。
それほどにモノだ。

モノの世界。それは、ptsdの世界に似ている。トラウマの世界。心的外傷というショックが、乱気流になって、雲の中を蠢く世界。

僕は昔、トラウマの世界をこういう風に例えたことがある。

心の中には一つの箱があって、感情の波が何度も内側からその箱を突き破ろうと試みるのだけれど、箱は一向に破れない。
そして、箱の中に小さな私という小人がいて、波を飲み、波に揉まれ、溺れている。

この箱の中の小人は、無力で、波を防ぐこともできない。波は強すぎて制することができない。波は強すぎるから、浮いてやりすごすこと到底できない。

僕はその波をやり過ごす方法を学んだ。
それは読書だった。
本で学んだ言葉を一つの船のかけらとして浮かべた。
本を読んで言葉を知るたびに船は作り上げられていった。
いつしか、波をやり過ごす大きさの船ができた。
それは、海底から続く足場にもなって、一つずつ積み上げられたのだ。

僕は束の間の安寧を手にした。

しかし、天井は、箱は、破れることを知らなかった。
僕は今、試みている。

話が逸れた。


サドはモノの世界を見ている。唯物論者らしい。
サドは人を既存の社会から切断するために、あらゆるつながりの破壊を行う。
そこで用いられるのは、やはり性なのか。
性は人をモノにする。
欲望の対象にしてしまう。
精神を度外視してしまう。
そういう、特徴がある。

性行為をしても、モノとしてするのか、人としてするのかではその差がありすぎる。

サドの話も気になるが、僕はなぜ人がモノと人とに分かれるのか、悔しくて仕方なかった。
そう、僕はモノ側の人だったから。

モノか人かを分けるその精神性の有無。
それは、様々な外傷体験にあるだろう。

特に、幼少期が大切で、自我を持っていった相手に(身近な人、たいてい親だ) まるで先生が赤ペンでテストを採点するように、マルかペケをつけられる。
その積み重ねで何が人に喜ばれる態度なのかを人は学んでいく。
愛され方、コミュニケーションの仕方が大切だ。

日本に、技術者はいないと思う。なかなかに。

しかし、経験はいくらでも積める。生きている限り。だから、諦めないで、どうか一人でも多くの人が人として交われる機会と場を作っていこう。

方法の話に続く。

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