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5. コークからのゲスト

 現在、Irish PUB fieldは休業を余儀なくされていますが、そんな折り、2000年のパブ創業以来の様々な資料に触れる機会がありました。そこで、2001~11年ごろにfield オーナー洲崎一彦が、ライターのおおしまゆたか氏と共に編集発行していた月刊メールマガジン、「クラン・コラCran Coille:アイルランド音楽の森」に寄稿していた記事を発掘しました。

 そして、このほぼ10年分に渡る記事より私が特に面白いと思ったものを選抜し、紹介して行くシリーズをこのnote上で始めることにしました。特に若い世代の皆様には意外な事実が満載でお楽しみいただけることと思います。

 noteから得られる皆様のサポート(投げ銭)は、field存続のために役立てたいと思っています。

 前回のPart4では、fieldのアイリッシュセッションが軌道に乗り出した頃の一幕をご紹介しました。今回はセッションが内包する「矛盾」に悶々とする洲崎、その心中に風穴を開けるような出来事が起きます──。(Irish PUB field 店長 佐藤)」

↓前回、Part 4は、こちら↓

fieldどたばたセッションの現場から 5(2001年11月)

「アイリッシュ・セッション」この言葉に込められた憧れが大きければ大きいほど、現実のセッション現場での戸惑いと困惑に日々頭を悩ませることにもなる。文字どおり手探りで始めて、今も何とか続けているfieldセッションだが、いまだ「これがfieldセッションの形」というものが確立しない。

 では、「アイリッシュ・セッション」への憧れとは何か?何にそんなに惹かれるのか?これは、つまる所、私ひとりの個人的な思いこみに過ぎない部分が大きいことは自分でも薄々気が付いている。

「アイルランドのどこそこの町のパブではこんなセッションをやってた」 とか、

「現地のミュージシャンにパブ・セッションの裏事情を聞いた」

 などの情報は自然と私の耳にも入ってくるようになったし、実際に日常的にセッションをやっていると、やはりそこには「面白いセッション」と「面白くないセッション」が厳然と存在する事実から目を背けるわけにはいかなくなる。  

 私が、セッションに思い描いた憧れは「オープンな空間による高い音楽性」 という部分に尽きる。しかし、このことは、ちょっと考えてみても大きな矛盾を内包している。

 オープンな空間というのは、誰でも受け入れる閉鎖的でない状態である。

「誰もが自由に参加できる音楽演奏空間」。言葉にすると、 あまりにも甘味な世界。

 しかし、この空間は音楽性を高めるためにはまったくの非効率としか言いようがない。楽器の演奏には、悲しいかな、どうしても技術の優劣がつきまとう。また、この技術には、運動神経的な技術から、 感性的な技術まで、その意味するところは限りなく幅広い。

 また、アイリッシュのセッションでは、選曲の問題がある。参加者全員で演奏するためには、 みんなが知っている曲を選ばなくてはならない。

 このような状況で、楽器を合奏するためには、高度な演奏技術を必要としない、限られた曲しか演奏できないという動かし難い制限が発生する。このあたりを考慮すると、音楽性 を確実に高めるためには、固定メンバーで切磋琢磨するのが最も効率的だ。

 しかし、これだと、誰もがこのセッションに参加できるという道が閉ざされる。相当な演奏技術を持った人でも「新参者」というだけで排除される可能性もある。

 そして、これはヘタをすると、ひとつの固定された合奏ユニットの公開練習会でしかなくなる恐れが出てくる。それぐらいなら、ちゃんとステージを設えて、ライブをする方が、観ている人に対してどれほど親切というものか。  

 理屈ではこうなる。これは、致命的な矛盾である。しかし、私は、この矛盾した要素を統合したセッションへの憧れをどうしてもあきらめることが出来ない。それは、現実のセッションでは上記の理屈を越えた「偶然」という要素が常に複雑に絡む事で、その時々のセッションの場の空気と音楽を左右することを経験してしまったからだ。

 ただ、「偶然」は文字通り「偶然」でしかない。確実な「偶然」は「偶然」ではない。

 また、「偶然」に依存するほど脆弱なことはない。

「決して依存することはできないが、現実として存在する影響」としての「偶然」。

 この「偶然」の取り扱いもまた、難儀極まるものである。  

 少し表現がかたくなってしまったが、以上のような慢性的問題を抱えながらも継続している

 fieldセッションに、先日ひとつの偶然状況が出現した。 fieldからそう遠くないライブハウス「磔磔」で、シェイマス・クレイ、ミック・デイリー&山口智のライブが行われた。ライブ後、彼らはfieldに立ち寄ってくれたのだった。

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↑京都の老舗ライブハウス「磔磔」の2001年10月のインフォメーション。ロック・ブルースバンドひしめくライブハウスのマンスリーにアイリッシュミュージシャンが名を連ねている。(磔磔HPより引用)

 レギュラー・セッションの曜日ではなかったので、いつものセッション席は今日は一般のお客さんでふさがっていたので、奥の部屋に陣取った。  

https://youtu.be/6TG6bfD54HU
↑フィドラー、シェイマス・クレイのポルカ独奏。

 まず、アイルランドのミュージシャンはみんな酒のみで酔っぱらいというイメージはモノの見事に崩れ去った。シェイマスさんはホットコーヒーを飲んでいるぞ! おお! 山口さんもホットコーヒーを飲んでいるぞ!この落ち着いた雰囲気は何や!? 

 この物静かなくつろいだ雰囲気の中で、誰からともなく楽器がケースから取り出され、いつのまにか、すう~っとセッションが始まった。特にシェイマス、ミック、といった「本日の主人公」的なお2人の演奏が終始控えめで、ついさっき観て来たばかりのライブとはうって変わったプレイが印象に残る。

 そう、あくまで、この場に楽器を持って集まってきた私たちを楽しませようとしてくれているとしか思えない。誰かが、たどたどしく、たぶんうろ覚えのチューンを弾き始めると、シェイマスさんは本当に優しく微笑みながら自分のフィドルでメロディーをフォロウする。テンポや音量もあくまで最初に弾き始めた彼女のペースを守る。テンポが落ち着いてくると、知らぬ間にミックさんのギターが伴奏を付けている。これも、 あくまで、彼女へのフォロウだ。

 そして、このチューンを知っている者がそろりそろりと演奏に参加して、気が付くとみんな演奏している。いつもの fieldのレギュラーセッションがいかに騒がしいか思い知らされる。誰かが始めたチューンの横取りなど日常茶飯事だし、何よりも音がもっとツンツンにとんがっている。

 この、優しい眼差しにあふれたジェントルな雰囲気。おおらかな雰囲気。あまりにも違うこの空気!!  ちょっとした会話とちょっとした目配せで自然に音楽が始まり自然に終わる。ダンスチューンも「もう!ノリノリやでえ!」というのではなくて、ゆっくり独特のアクセントのうねりを楽しむカンジ。これが、コーク地方の特色なのか?シャエイマスさんのお人柄なのか? それはよく分からないけれど、 私には一種のカルチャーショックだった。

「こういうの、あるんや」ていう発見があった。  

 この日、ステージ直後でお疲れの所を、みんなでfieldまで足を運んで下さった山口智さんに感謝します。 (以下次号)

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↑ギャラリールームのアイルランド国旗に書かれた彼らのサイン

<洲崎一彦:京都のIrish PUB field のおやじ>

 

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