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6. セッションをめぐる二重の矛盾

 現在、Irish PUB fieldは休業を余儀なくされていますが、そんな折り、2000年のパブ創業以来の様々な資料に触れる機会がありました。そこで、2001~11年ごろにfield オーナー洲崎一彦が、ライターのおおしまゆたか氏と共に編集発行していた月刊メールマガジン、「クラン・コラCran Coille:アイルランド音楽の森」に寄稿していた記事を発掘しました。

 そして、このほぼ10年分に渡る記事より私が特に面白いと思ったものを選抜し、紹介して行くシリーズをこのnote上で始めることにしました。特に若い世代の皆様には意外な事実が満載でお楽しみいただけることと思います。

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 前回はfieldのセッションが続く中、洲崎が観察した一つの矛盾について取り上げた記事を紹介しましたが、今回はその続き、もう一つの矛盾についてのお話です。(Irish PUB field 店長 佐藤)

↓前回の記事は、こちら↓

fieldどたばたセッションの現場から 6(2001年12月)

 前回は、アイリッシュ・セッションというものが持っている一種の矛盾と、 その矛盾を瞬時に覆す偶然のお話をしたが、今回はその続きです。  

 最近、fieldアイ研(fieldアイルランド音楽研究会)ぶちょーのイクシマ氏と論争している話題でもあるのだが、

「セッションか?ライブか?」とい うテーマがある。

 ぶちょーは自他共に認める「セッション派」なのだが、彼にとってアイリッシュを演奏することはセッションに参加することとイコールなのだ。演出や段取りを考えて演奏しなければいけないライブの堅苦しさを、彼は

「アイリッシュの自由さが損なわれる」といって敬遠する。

 非常に極端な考え方だとは思うが、気持ちはよくわかる。  

 前回、セッションにはさまざまな「偶然状況」が出現するというお話をし た。また、その例として先日シェイマス・クレイとミック・デイリーを伴っ て、山口智さんがfieldを訪れた時のセッションの模様を報告した。

 が、特別なゲストがやって来た時だけが「偶然状況」ではない。何らいつもとかわりばえのしない連中が集まった時にも色々な「偶然状況」が現れる。これには、ミュージシャンひとりひとりのその時の調子という要素と、人の組み合わせの問題という要素が複雑にからみ合う。  

 確かに、ぶちょーの言うとおり、ミュージシャンにとってセッションはラ イブほど気が張らない。良く言えばリラックスしているし、悪く言えば緊張 感に欠ける。つまり、ライブだと、気分的にまたは身体的に少々調子が悪く ても、その緊張感を利用してある一定のレベルまでは割と容易に集中力を引 き上げる事ができる。だが、セッションの場合は、そういう個人的な調子が モロに表に出てしまうのだ。悪く言えばタレ流し。また、そういうガラス張 りのミュージシャンの様子が面白くてセッションを観に来る意地悪なお客さ んがいないとも限らない。

 しかし、ぶちょーのタイプはこのような状況の中でモリモリと自らのボルテージを高めるのだ。端で見ていると、

「アンタそりゃあライブ以上の盛り上がりやろう!」と突っ込みを入れたくなるぐらいだ。

 彼にとってはセッションは1回1回が真剣勝負だし、他のミュージシャン との戦いの場なのだ。  

 しかし、これとは正反対のミュージシャンも大勢いる。むしろ多数派はこ ちらの方かもしれない。

「もっと気楽に遊ぼうよ」というタイプである。

 こちらのタイプはある程度ライブも重要視しているミュージシャンである場合が多い。緊張感と集中力を発揮するのはライブの場だと割り切っているので、彼らにとってセッションはあくまで気楽なものでなければ意味がない。どちらがいいのか一概に判断できる問題ではない。どちらも、セッションという環境の中で個人的調子という要素がガラス張りになる前提は共通 していて、そこに臨む気概の部分が正反対なのだ。

 そして、セッションにはこの双方のタイプのミュージシャン達が往々にして入り交じるのだ。こういう場合はセッションをする着席の順番ひとつがそのセッションの空気を大きく左右することもある。  

 以上のようなメカニズムに作用するさまざまな偶然はまさに予測がつかな い。だから、セッションの空気は1回1回違う。たとえ同じメンバーが集まっても同じ雰囲気のセッションはありえないのだ。

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↑2003年頃のセッションの写真。現在もfieldはオープン・セッション、
その時になってみないとどんな演奏者がやって来るかわからない。

 だが、これはfieldが行っているような完全オープン・セッションの場合にのみあてはまるのだと思う。固定メンバーでの、ある程度一定の観客の目を意識した、または、パブ側の営業的要請に従って行われているセッションはこういうスリリングな状況を回避することができるし、前回お話しした音楽的矛盾も最小限に押さえることができるだろう。

 つまり、「パブのセッション」という商品品質は安定する。  

 さて、ここからが問題なのである。私はミュージシャンでもありパブの大 将でもある。パブ側という視点に立てば、セッションを「パブの商品」のひ とつとして認識しなければならない面を否定できない。

 しかし、私はもともとセッションがしたくてパブを作ったのである。自分がミュージシャンとしてセッションを楽しむ事ができなければパブを作った意味がない。ここに、「相互に本末転倒」という困った構造があるではないか!  

 前回、私はさもしたり顔で「セッションは音楽的矛盾を内包する」などと 語ってしまったが、これをとり行っている私自身にかくの如し矛盾が内包さ れている。この二重螺旋構造!! 

 二重の矛盾はお互いにうち消し会って「ゼロ」になるなどとうまい理屈があるワケはないが、fieldセッションは本日も無事終了したのであった。めでたし、めでたし。 (以下次号)

<洲崎一彦:京都のIrish PUB field のおやじ>

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