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❶「音」だけだった日本の言葉古来日本の言葉に文字はなく、音だけが存在しました。すべての音は母音が5つで子音が10のほぼ完全なマトリックス(縦横の表)で示すことができ、表現に必要な約50の最小限な音になっています。もともとの言葉は1音や2音、3音の短いものが主流で、類似する要素や意味合いを持つものが同じ音で表現されました(例:ワ(輪・和)、ヒ(日・火)、ウミ(海・生み)など)(※諸説あり)。 漢字が入ってきた当初は、本来の漢字の意味に関係なく言葉の音に合った字(当て字)が使
567年(第29代 欽明天皇の時代)国内で風水被害と飢饉が起こり、占いの結果、賀茂大神の祟りとされた。勅命(天皇の命令)で盛大に祭礼を行ったところ収まり豊穣になったことから、朝廷の祭祀に準じた祭として催行されるようになった。 ❶葵の葉❷賀茂競馬(5/5)上賀茂神社(賀茂別雷神社:京都市北区上賀茂本山) 宮中で行われていた競馬会が上賀茂神社で毎年5月5日に行われる(かもくらべうま)。現在では葵祭の前儀のひとつとなっている。 ❸御蔭祭(5/12)御蔭神社(京都市左京区上高野東
貞観時代(859-877年)全国で噴火や地震などの天災が相次ぎ、第56代 清和天皇によって御霊会が始められた。869年疫病が流行り、この年の御霊会で当時の国の数66本の鉾を立て八坂神社から神泉苑に御輿を送ったことに由来し、祇園祭が始まる。 ❶山鉾町で立てられる山鉾(京都市中京区・下京区 南北/姉小路通~松原通、東西/東洞院通~油小路通の間) 毎年7月10日より、点在する山鉾町30数か所で山や鉾が立てられる。釘を使わず木と縄で組み立てていく。 ❷宵々々山、宵々山、宵山前祭(
794年 第50代 桓武天皇によって遷都し、約1100年の間、都として維持された。 ❶ 平安宮朝堂院 大極殿跡(京都市中京区聚楽廻東町) 朝堂院は政務を行う大内裏の正庁で、北端中央に大極殿があり、高御座に天皇が座した。中庭を囲んで八省十二堂が並び、南には応天門があった。 ❷ 内裏の数々(千本通の東側 北:下長者町通、南:下立売通辺り) 内裏は天皇の住居で、朝堂院の北東にあった。現在このあたりには内裏を表す看板や碑が立っている。 ❸ 様々な試みがされた神泉苑(京都市中京区
京春日は、長岡京から北西に約7㎞の小塩山の麓にある、大原野神社を中心とした地域です。現在は京都市西京区に属しています。 ❶大原野神社(京都市西京区大原野南春日町) 784年、第50代 桓武天皇が平城京から長岡京に遷都した際、皇后の藤原乙牟漏が奈良の春日大社から藤原氏の氏神を、鷹狩が行われていた大原野に勧請した。平安京に遷都した後も、外戚という立場を望んだ藤原氏は女子が生まれると皇室に嫁げるよう祈願し、願いが叶うと行列を作って参詣した。第55代 文徳天皇によって壮麗な社殿が
第52代 嵯峨天皇は兄の平城上皇(第51代 平城天皇)が平城京へ都を戻そうとして対立、賀茂大神に祈願して薬子の変(810年)で勝利した。約束通り皇女を奉仕させることとし、伊勢神宮に倣って斎王を選び『斎院』と呼んで以降承久の乱(1221年)で廃れるまで35名が仕えた。現在は、葵祭の斎王代に受け継がれている。 ❶斎院の御所 紫野院櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ) (京都市上京区大宮通盧山寺上る西入社横町) 斎王に500人の宮人・女官が仕えた。約150メートル四方の敷地規