音楽がくれる行動力 全感覚祭19 大阪レポート
この日、私はなんだか心を閉ざしていた。
自分自身を認めたいがために、他人の言動にいちいち傷つく自分がいる。あーそんな自分が面倒くさい、とくさくさしながら南海電鉄に乗り換え堺駅を目指す。電車に揺られながらライブを心待ちに移動するいつものような気分になれず、だけど堺駅が近付くにつれ心のどこかで、全感覚祭に行けば頭と心が起き上がる、そんな期待があった。
堺駅で偶然友達に出会う。今日をとても楽しみにしてキラキラした瞳で話してくれる彼女のことを、とても素敵だなあと思いながら、彼女と私の境界線についてぐるぐる考えていた。これは単純に「わたしのもんだい」なのだな。
開演時間ギリギリに会場に向かって早足で歩いていると、既にNUUAMUらしき歌声が、風に乗って流れてきた。マヒトゥ・ザ・ピーポーと青葉市子の歌声が互いの違いを保ちながら優しく絡み合う。“EDEN”の不穏で優しいギターの音は、すっぽりと会場を音楽で包みこむ。獣のように絞りだされるマヒトの声は、人間の体を借りた自然界のすべての悲しみのようであり、その叫びの周りを凛とした青葉のハミングが、風のようにヒラヒラと舞う。そのすべてを美しい営みだと思う。
副交感神経を柔らかに撫でるようなNUUAMUに後ろ髪を引かれながら、BLUE HEAVENへと向かう。ODD REDを離れるときに、段々音が潮風と交じり遠くなって、またあらためてBLUE HEAVENの音に出会う感じ。この2つの会場の境界線の中で、一度遠くひとりになれる感じが全感覚祭らしくていい。ただすれ違う人たちと、無言でものを言うエキシビジョンの写真。曲がり角では終始ボランティアスタッフの方が通行人の私たちを導いていた。こういう人たちがいることが当たり前ではないことに、想像力を使わなければいけない。
BLUE HEAVENでのお目当てはimai。交感神経に一撃を食らい、等しく打ち付ける低音に血流が増す。しかし朝の11時という時間もあって、前方で銘々踊る人たちは、さながら新時代のラジオ体操といった感じ。imaiの哀愁いっぱいの人間味あるトラックと相まって、なんだかヘルシーだ。
今回、入場フリーに加え、フードフリーに挑んだGEZAN。その意味を感じるために、フードの列に並ぶ。正直言えば、色々考えることを拒みかけていた私は、会場から抜け出し提示された金額を払って飲食をするような近隣の店舗で食事することもできた。しかしフードフリー協賛者の血の通った温かいご飯によって、自分の身体を満たし自分の中に生まれる何かを確かめたかった。人気店のカレーには長蛇の列。それを整列させてくれる人はいない。混沌としかけた列の最後尾を必死に探す。BISINGのライブに見とれ、つい列から逸脱する人たち。
ところで本当に、この列に並んでいて食事に辿り着くんだろうか?自分の命を守ることができる?この列にいる人たちは、私のように不安ではないのだろうか。血糖値の下がりつつある頭で必死に考える。ここだけ切り取ってみると、年金問題をはじめとした社会に溢れる私たちの暮らしの問題に重なる。すべて、当たり前ではない。自分の頭を使わなければならない。
それと全感覚祭におけるフリーとは、無料で施されるがままに受け取ればいいのではなく、その価値を自分自身で考える世界がここにあるということ。温かい食事が身体に染みわたり、先々の命を少し確保したありがたみを、お金という価値に置き換えてみる。命に関わる食べ物の価値をフリーにしたことで、音楽をきれいごとにしないで、なおかつ人の営みも軽視しないGEZANの本当の志が見て取れる。音楽の豊かさと、食べ物の温かさ。これをしっかり感じられているということは、今最も人間らしく存在できているのではないか。
ODD REDに戻り、んoonのステージ。曲を重ねるごとに深いグルーヴへと導き、“Summer Child” でのVo.JCの「Dance!」のコールで、既にリズムで満タンの身体を揺らす。音楽がもたらすものはひとつではない。ここでは考えることを一旦脇におき、ただただ根源的なリズムの心地良さに身体を任せる。彼女たちの、直観と思いやりをコアコンセプトに、ジャンルの境界面に揺蕩うことを重視するという姿勢は、全感覚祭にも非常にマッチしている。この様々なジャンルのアーティストが並列にステージに立つ全感覚祭において、それぞれ隣にいる誰かは最初から違う音楽を愛し、違う音楽を信じているはずだ。それでも全感覚祭に溢れている想像力をもってすれば、隣にいる誰かとの境界面を尊ぶことができるはず。
音楽は時として、心地よい思考停止をもたらす。昨日あった嫌なことを忘れ、拭えない違和感を見なかったことにし、頭を空っぽにして心だけで感じる。それは一見純粋な行為のように見えるし、そういう人たちは、みな本当に優しくて「いい人」なのだ。だからこそ罪深い。ものごとをよく考えるようになると、段々その境目に接触する。それは透明の壁。きっとまだ自分も外には出られていないだろう。
GEZANを東京に送り出した、十三のライブハウスFANDANGOが、全感覚祭の会場である堺に移転してきた。その新生ファンダンゴであるWHITE RIOTステージで、KKmangaのステージ。音楽が音楽になる前のピュアさと雑味がたまらず、ノイジーでパンキッシュな音に、たった30分で中毒になった。そのあと、ODD REDのステージ裏へと早足で移動し、折坂悠太(重奏)の歌声に聴き入る。表現方法の全く違うどちらも、等しく並列に音楽であることが喜ばしい。どちらかだけが自分の趣味趣向に合っていても、それも認めたい。だけどどちらの良さも感じることができたら、そんな豊かなことはない。
そしていよいよGEZAN。誰もがシンガロングできるみんなのための “Absolutely Imagination”が鳴り始めると、始まったという感覚よりもこの最高な一日が終わってしまうという、何とも言えない焦燥感が襲う。「今日が最高でもそうでもなくてもいい」と話すマヒトの言葉は「みんな」にではなく「ひとりひとり」に伝えられようとしていると感じたし、そんなひとりひとりに想像し行動することが求められているようだった。「絶対的な想像力」を働かせる。個が尊重されるということは、それだけ個が自立していなければならない。そうしてこそ得られる尊重。心を閉ざし考えることをやめ、社会に隠れるように生きてしまった日、当然そんな自分が尊ばれるわけがないというわけだ。
“赤曜日” “東京”からのメッセージ。頭の中ではひとつひとつのワードを受け取りながら、民族的なリズムに自然とステップを踏み、心を自然に向かって開いていく。ここで思い切り考え、感じたことで、閉ざすことでしか守れなかった弱さを気持ちよくぶち壊し、本当の意味で立ち上がらせてくれた。
今回、台風19号の影響で中止を余儀なくされた全感覚祭19 東京。天候や天災もそうだが、生まれてきた家庭環境、持って生まれた性別、事故、病気、私たちは多くの選べないものの前で立ち尽くす。だけど、想像力がもたらした世界は、選べなかった未来をも選ぶ力をくれるだろう。全感覚祭SHIBUYAの開催実現とそれに関わる全ての人の行動が、それを証明してくれた。そして、想像力を持っていれさえすれば、渋谷に集まることができなくても、私たちはそれに参加することができる。
全感覚祭の一連がどのように成り立っているか、あらためて想像する。実際に大阪、そしてこれから渋谷で音楽と食べ物を受け取った私たちは、必ず行動しよう。それは、投げ銭やクラウドファンディングはもちろん、それ以降も。音楽は元気や勇気をくれたりするけど、GEZANは、全感覚祭はその先の行動力をくれる。これはほんの一例だけど、例えば、自分とはどうしたって違う、あなたのことを考える。これもひとつの行動。この世の全ての子どもたちは愛されるべきで、世界中で大切にするためにどうしたらいいだろう。もちろん大人も。愛するってどういうこと?昨日より美味しくご飯をつくる、美味しく食べる。街のゴミを拾う、部屋を丁寧に片づける。自分の人生を丁寧に生きる、そうしたら他人の人生のことも丁寧に想像できる。自分自身と向き合う、他人に自分の意見を言ってみる。そんなすべての行動を。
ここまで関わった全ての人たちの想いがつくった全感覚祭SHIBUYA- Human Rebellion -。開催場所が「ちがいをちからに変える街」東京都渋谷区だというのも、2019年の答えのひとつとして完璧ではないか。何の魅力もない人間などいない。誰のことも、どんな感情をもないことにはしない、雄大な想像力。誰かが誰かを否定したとき、その瞬間零れ落ちる想像力。ただしそれは、銘々の行動に委ねられる。GEZANと私たち、あなたたちの想像力が創る「NEW AGE STEP」がこんな世界なら、もう少し生きてやるべきことがある、そうは思わないだろうか。
(写真 堤大樹)
私は今回、ひとりで向き合いたいと面倒くさいことを言ってもくもくとレポートを書きましたが、アンテナメンバーが全感覚祭19 大阪について座談会をした様子はこちらです▼
https://note.mu/kyoto_antenna/n/n1e55f996711c
ライター:小倉陽子
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