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『眠る虫』と『スパイの妻』のこと

妻が見に行くといいよと言ってくれた。いつもより2時間くらい早く夕飯と風呂を済ませて東中野に向かった。普段なら駆けつけられない時間帯に上映されていた金子由里奈さんの監督作『眠る虫』。

いつでも長ネギをショルダーバックに入れて私もバスに乗りたい。でもそれは叶わない。できるけれど選べない。だから自分は映画を作っているのだと思った。主人公も知らない時間がずっとそこには流れていた。誰が主人公でもない。ただそこにあった時間。映画は記録すること。リュミエール兄弟の「工場の出口」は記録した。大掛かりな演出をもって。2020年に見た『眠る虫』にも同じ時間が流れていた。工場が移動するバスに変わっていた。

15年くらい前に京都のショットバーで年配の女性と出会った。カウンター席でそれぞれお酒を飲んでいた。NHKの情報バラエティ番組の下見のために訪れていた。ひとりで静かに飲めそうな店を探して入っていた。始まりを忘れたけれど、しばらくふたりで話した。恥ずかしいけれどと言いながら京都の地図を見せてくれた。手書きだった。多くは甘味処が記されていた。見入っていたら、そこにある店の半分くらいはもうないこと、役に立たない地図であることを伝えられた。この地図すごいですと言いながら隈なく見ていたら譲ってくれた。他の場所でご自身がバーを開いていて、閉店後に休息のために他の店に寄ってから帰るのだと教えてくれた。次の日の夜にその店に向かった。京都以外の街の地図もあると知らされて、見てみたいですと伝えたら住所を聞かれた。後日、当時まだ住んでいた実家に送られてきた。ポストから手に取ったのは父だった。その封筒を差し出しながら、協士ももう大丈夫だなと言った。こんなに美しい字を書く人から便りをもらうのだから、もう父さんは何の心配もないと言った。それからしばらくして父は他界した。

『眠る虫』を見ながら思い出していたのはその地図だった。今はもうない甘味処。弔うことで生きている。

帰りの京王線。発車を待っていたらアナウンスが聞こえた。しばらく動かないとのことだった。電車を降りて映画館に向かった。『スパイの妻』を見た。20代の後半になったあるとき、黒沢清さんのことは忘れようと決めたのを覚えている。黒沢さんもその作品もそばにいたら自分を見失うと思った。作品を見にいくことはあっても、どこかで距離を置いていた。自分で立てていたその壁に少しずつ穴が開いていくのがわかった。

2つの大学での1週間前の授業。戦争と映画の話をしていた。映画の技術革新が常に戦争とともにあること、ナチスのこと、山中貞雄、黒沢さんのこと。余談で、黒沢さんの映画に登場する食卓のシーンについて触れていた。いつも不穏な時間が流れている。公開された『スパイの妻』をよかったら見に行ってください、きっと不穏な食卓のシーンがあると思いますと伝えた。夫婦の緊張した時間が流れる食卓のシーンがあった。そこには不穏な空気はなかった。ただ真っ直ぐに向き合う二人が写し出されていた。その場所は神戸だった。神戸は黒沢さんが育った街だった。私が初めて演出部としてカチンコを打ったのもその街だった。夜、中華街を案内してくれる黒沢さんの背中についていった。道に迷って、その店にはたどり着かなかった。代わりに別の中華料理店に入った。育った街にいても、黒沢さんのこども時代の話を聞くことはなかった。『スパイの妻』は戦争の映画だった。そこには山中貞雄も小津安二郎もいた。大学での授業のために『その夜の妻』のDVDを購入してある。この先の授業で上映するけれど、見せる場面は予定からきっと変わる。いつもずっとたどり着けなかったあの場所に『スパイの妻』はたどり着いていた。ちゃんと本当の車が本当の道を走って。

神戸で撮影した1年後に那須高原にいた。ロケハン写真を撮るふりをして黒沢さんの姿を撮っていた。私の憧れの人だった。映画館で予告編を見て、この映画を自分は見なくてはと感じて足を運んだのは『CURE』が初めてだった。つづけて『ニンゲン合格』も見に行った。ホールはガラガラだった。大学で、講師として呼んでほしい人がいたら書くように言われて渡された紙に黒沢清と記していた。

場内が明るくなっても席から立ち上がることができなかった。劇場スタッフが閉館を知らせにきた。

こっそり黒沢さんの姿を撮ったとき、私は25歳だった。『眠る虫』の金子さんはいま25歳。自ら築き上げた壁に開けられた穴の向こうから漏れてくる光を見ている。

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