春原さんのうた つづき
映画『春原さんのうた』はラストシーンから撮影することになった。2020年3月23日の月曜日にそのシーンを撮り終えたところで、それ以降のスケジュールの延期を決めた。延期と言いながら心のなかでは中止かもしれないと思っていた。映画のメインの舞台となる施設からの撮影許可が一旦保留になり、その「一旦」がもしかしたら数年に及ぶだろうと予感していた。自粛生活の忙しさのなかで少しずつ気持ちの整理をつけはじめていた。
「さて、東京のアパートなんですが、やはり引払う方向で考えています。とは言っても、早くて今年の9月いっぱいを考えてます。誰か住んでくれればいいんですけどね、、。それで、わがまま言って申し訳ないのですが、うちでの撮影だけ、なんとか遂行できないでしょうか?」
このメッセージが俳優の日髙啓介さんから届いたのが5月14日の火曜日だった。日髙さんのお住まいの部屋を『春原さんのうた』の主人公が暮らす部屋としてお借りすることになっていた。すぐにメッセージではなく電話をかけた。活動の拠点を地元の宮崎に移すと決めたこと、いま住んでいるアパートに思い入れがあること、映像の中だけでもその部屋の様子を残しておきたい気持ちがあることなどを教えてくれた。
そのシーンだけ撮影することはできる。他のシーンがないと作品としては残せない。他のシーンの撮影はこの先もきっとむずかしい。日髙さんのお気持ちには応えたい。窓も多く風通しのいい部屋だから換気も十分でスタッフも少人数だから撮影自体はできる。ラストシーンでお借りしたカフェのキノコヤは窓やドアを開ければ換気は十分で、相談すれば店主の黒川由美子さんはきっとまたいいよと言ってくれる。その部屋とキノコヤが舞台なら今でも映画は作れる。東直子さんの短歌を映画にすることは実現させたい。出演者とスタッフのみなさんとできることなら一緒にこの作品を形にしたい。
それで思いついた。東さんの原作の短歌はそのままに、タイトルもそのままに、登場人物もそのままに、映画の舞台は日髙さんの部屋とキノコヤを中心にして、パラレルワールドみたいなもうひとつの物語を書けばいいのだと。お断りする気持ちの方が大きかったその電話の最後には分かりましたやってみますと言っていた。宮崎に帰っているところだった日髙さんから鍵をお借りして、数日後にはその部屋にお邪魔していた。小さな椅子に座って風に揺れるカーテンを眺めているうちに眠りに落ちていた。東直子さんにメールを送り、関係者のみなさんへの連絡をはじめた。場所が変わるとまた思い浮かぶお顔もあって、元々の出演者の人たちにあたらしい人たちが加わり、脚本はパラレルワールドではなく以前のお話のつづきになり、すでに撮影しているラストシーンはファーストシーンになり、その部屋の契約が終わるまでを目指して動きはじめた。だからそれは活動の再開で、あたらしいスタートだった。
転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー 東直子
東直子さんの歌集『春原さんのリコーダー』の文庫本は現場で使用しているサコッシュにお守りみたいに入れてる。アパートの契約終了の時期は少し延びたみたい。
『春原さんのうた』は俳優の荒木知佳さんの大がかりな顎の手術によるあたらしい顔の完成祝いとして始まり、そこから歌人の東直子さんの短歌につながり、日髙啓介さんと東京のアパートのお別れの記念になり、8月末からはじまった撮影の現場では「よーい、はい」「どうぞー」「カットー」「はーい」などと声を出してる。今週はその部屋にリコーダーの音が響いて、どこか見知らない世界からこちら側に届いた音みたいに聴こえてた。
映画『春原さんのうた』
出演:荒木知佳 新部聖子 金子岳憲 伊東沙保 能島瑞穂 日髙啓介 名児耶ゆり 黒川由美子 深澤しほ 徳倉マドカ 北村美岬 清水啓吾 安楽涼 大須みづほ DEG スカンク/ SKANK
原作:東直子 プロデューサー:髭野純 脚本・監督:杉田協士 撮影:飯岡幸子 照明:秋山恵二郎 音響:黄永昌 衣裳:小宮山芽以 編集:大川景子 仕上監修:田巻源太 音楽:スカンク/ SKANK 照明助手:平谷里紗 衣裳助手:田島あかり スチール:鈴木理絵 イラスト:カシワイ 宣伝:平井万里子 協力:インターセプター 配給・宣伝:Genuine Light Pictures、イハフィルムズ
2021年春完成予定
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