見出し画像

春原さんのうた

歌人の東直子さんと散歩をしました。東さんが短歌をはじめたころに住んでいた街。歌集『春原さんのリコーダー』、『青卵』に収載されている短歌は、そのころに詠まれたものだと教えてくれました。ここが住んでたマンション、ここの6階、1、2、3、4、5、6、あそこですね、あそこのあちら側、ここが娘が落ちた池、あれ、なくなっちゃったかな、いやこれですね、ここで娘が野生の栗を拾ってました、もっとうっそうとした雑木林で、ここならだいじょうぶだろうと花火してたら怒られたんです、「やめろー」って聞こえて、姿は見えないんですが、どこからか聞こえた気がして、買ったなかに爆竹みたいなのがあって、ここはなんだろう、こんなのあったかな、向こうに幼稚園があります、娘がひからびたみみずを拾って先生に渡すんです、先生も慣れてて、幼稚園からの帰りはいつも2時間くらいかかって、買い物はこのさきにあるスーパーに行ってました、コンビニとかないんです、駅前にはそのころキオスクしかなくて、あ、鳥、小学校は、あれどっちだったかな、おかしいですね、覚えてないなんて、こっちだったかな、こっちに行ってみましょうか。

転居先不明の判を見つめつつ春原さんの吹くリコーダー

東さんの第一歌集『春原さんのリコーダー』の表題歌。この一首を映画化することになりました。そこに至るまでに、いろんな小さなきっかけがありました。

去年の2月、渋谷で映画『ひかりの歌』が上映されていたとき、上映後のロビーで俳優の荒木知佳さんが話しかけてくれました。そのときはすぐにだれか分かりませんでした。マスクで顔を覆ってて。にこにこしてるのだけは分かりました。荒木さんだと気づいて、つづきの言葉を見つけられずにいました。ツイッターの投稿で、そのとき荒木さんが顎の治療の途中であることを知っていました。ティファールのCMに出るのが夢だという荒木さんは、そのことをある人に話したときに、あなたの歯並びじゃ無理でしょと真顔で言われて、そうかCMに出るのには歯並びが大事なのかと知り、一度診てもらいに病院に行ったのでした。そこで医師から、やっぱり真顔で、その噛み合わせのままだと命に関わりますよと言われたそうです。そこから長い期間をかけての顎の治療や手術がはじまりました。荒木さんが声をかけてくれたのは、ちょうどその途中でした。どうやら顎の大掛かりな治療をしているという情報だけは知っていたので、いままだその途中だろうに、きっといま顔が腫れているだろうに、そんななかこの方は映画を見にきてくれたと思い、その荒木さん自身はというと、目を見る限りにこにこ笑ってて、そのときに思わず、じゃあ荒木さんのあたらしい顔が完成したら、お祝いになにか撮りましょうかと伝えていました。

それについてはしばらく頭の片隅にあるくらいでした。やっぱりツイッターの投稿で、どうやら荒木さんの治療がそろそろ終わりに向かっていると知り、自分の言葉を思い出し、動き出そうと思いました。なにを撮ればいいのか考えはじめて、私は荒木さんのことをそんなによく知らないと気づきました。私が映像記録を担当していた舞台に、荒木さんが出演していたことが一度だけあって、そのときに楽屋の廊下で挨拶を交わすくらいでした。まず、ただお茶をしようと思いました。お互いの住んでいる街の、中間にある街の喫茶店で会って、いろんな話をしました。駅で別れて、その帰りの電車に乗りながら、あ、春原さん、と思いました。

私は『春原さんのリコーダー』を持っていませんでした。まだ知らないのに、そのとき、その歌集のことを思っていたのでした。その感覚をまずは信じてみようと思いました。まだ文庫化される前で、書店に行っても見つからず、近郊のいろんな自治体の図書館で検索しても出てこなくて、結局遠くの街の古書店から取り寄せました。届いてすぐに開きました。春原さんの一首のことを思いました。このまま進んでみようと思い、東さんに相談のメールを送りました。すぐに返事が届きました。その後のことは、いつかまたどこかで書くこともあるかもしれません。

東さんにはじめてお会いしたのは、『ひかりの歌』の劇場公開に向けての、最初の試写会でした。歌人の枡野浩一さんがお誘いしてくれて、ロビーで歌人の林あまりさん、東さん、枡野さんが話されているのを聞きながら、たまに会話にまぜていただいたのを覚えています。そのあとまた歌人の小野田光さんのイベントなどでお会いすることがあって、約束をして一緒にゆっくり時間をすごしたのは私の実家でした。東さんはパートナーの方を連れて、長靴を履いて、筍を掘りにきました。今年の春は、池に落ちたことのある方も、一緒に来てくれるかもしれません。

映画のタイトルは『春原さんのうた』になりました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?