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自販機の光

給油をしにいったら9月に閉店するのだと知った。多摩と八王子の境にある柚木石油。まだ幼稚園に上がる前、父に連れられて通った場所。父はきっと給油じゃなくて、そこの待合所でタバコを吸い、店長や他の客とおしゃべりするために足を運んでいた。母からたまに子守を頼まれて、仕方なく連れていったのかもしれない。待合所の自販機でかならずオロナミンCを買ってくれた。柚木石油に行けばオロナミンCが飲める。飲みながら水槽の魚や、ブラウン管のテレビ画面を眺めて過ごした。

父が他界した年の夏、実家の刈払機の不具合をどうしていいかわからず、私の所有になったばかりの車の後部座席に無理やり乗せて柚木石油に相談にいった。二代目の店長はすぐに直してくれて、手入れの仕方や、刈払機に使う混合ガソリンのことなども教えてくれた。詳しくは知らないけれど、柚木石油をはじめるときに、父は何らかの助けをしたらしく、息子である私にも丁寧に敬語で接してくれて、レシートを見ると割引してくれているのがわかる。そのことに恐縮してしまって、本当に困ったとき以外はなかなか行けなかった。

2012年の冬、劇団FUKAIPRODUCE羽衣の『サロメvsヨカナーン』の舞台上で使用する映像を撮影する日は大雪で、車に機材を積んで多摩から品川まで移動しなくてはならず、家を出発してまずはスタッドレスタイヤを預けていたはずの柚木石油に向かった。あと100メートルで到着するかというところの坂が登れない。車を降りて歩いて店まで行き、店長に事情を説明すると、すぐに給油車を出してくれた。2台をロープでつないで牽引し、何度も試してくれたけれど、坂は登れなかった。そして、預けていたスタッドレスタイヤはゴムが劣化して数年前に廃棄してあると知らされ、途方に暮れた。その間にもさらに雪は深く積もり、家にも戻れそうになかったので、邪魔にならない場所に車を停め、機材を降ろして徒歩と電車で品川に向かった。その後も、車が不調のときや、刈払機に問題が起きたとき、柚木石油にお世話になった。

閉店すると知ったのは、宇津つよしさんの短歌を原作にした新作短編映画『自販機の光にふらふら歩み寄り ごめんなさいってつぶやいていた』の脚本を用意する期限が迫っていたときで、ひさしぶりに給油に寄ったときに店長から知らされて、すぐに柚木石油が舞台なのはどうだろうと頭に浮かんだ。そんなにガソリンは減ってないのに、一週間後にまた行った。

ここができたのが昭和47年でしょ、地下のタンク、もともとあたらしくしなくちゃだったし、ちょうどね、その道、広げるっていうし、保証金だけじゃやってけないからと、店長は事情を丁寧に説明してくれた。閉店するまでのどこか数日で映画を撮影させてもらえませんかと相談してみると、それも記念になるしいいですよと言ってくれた。出演もいいですかと尋ねると、店長の政則さんは躊躇して、パートナーの澄江さんはむりむりむりですと首をぶんぶん横に振っていた。そのあとは聞こえないふりをして遠くを見ていた。政則さんは、出演はちょっと緊張しちゃうなと言いながら、ぎりぎりOKかもしれないと思えるくらいの曖昧な頷きをしてくれた。いまから脚本書いてきますと伝えて店を出て、どこか外で作業をしたくて、テラス席のある五月台のハンバーガー店に行った。メインの舞台が決まったら物語が浮かんできて、全体については考えずにシーン1から書きすすめた。しばらくすると嵐になって、店内に移動して書きつづけた。出演は伊東茄那さん、FUKAIPRODUCE羽衣の日髙啓介さん、西田夏奈子さんが事前に決まっていて、書いていたら、日髙さんの演じる人物がライブハウスで歌うシーンを撮りたくなって、もしやるなら日髙さんと長年一緒に歌ってきたFUKAIPRODUCE羽衣主宰の深井順子さんにもお願いしたくなって、その場で連絡をした。急な相談だったし、舞台の本番も控えていたのに快諾してくれて、唯一の稽古休みを撮影日として提案してくれた。そのまま書き上げてみんなにメールで送り、柚木石油にはプリントしたものを届けにいった。撮影に向けて考えごとをしたくて、しばらく待合所にいさせてもらった。ひとつの椅子に座ってみたらしっくりこなくて、別の椅子に移ってぼんやりしていると、手の空いた政則さんが中に戻ってきて、父の思い出話をしてくれた。卓三さん、いつもここに座ってたよねと、さきほどの椅子を指差している。そこが指定席だって知らない人が座ってるとね、不機嫌になっちゃってとわらっていた。その流れから、オロナミンCの話を政則さんにしていた。自販機に目をやると、並んだサンプルのなかにオロナミンCはなかった。

撮影の初日は公園のシーンだった。途中、日髙さんの携帯に深井さんから連絡が入った。深井さんの母親の加津子さんが入院することになり、病状も重く、心の準備をしておいてくださいと医師から伝えられたようだった。日髙さんはその日の撮影を終えると、そのまま病院に向かった。深井さんの母親であり、FUKAIPRODUCE羽衣の母親のような存在でもある加津子さんは、宮崎を出たときから深井さんと一緒にやってきた日髙さんにとっても、きっと東京の母親のように大切な人で、深井が動揺していて心配だという日髙さんも動揺しているはずなのに、私を心配させないようにしてくれていた。

初めて会ったのは加津子さんがまだ小料理店「深井」をやっていたころで、FUKAIPRODUCE羽衣が毎年行うライブのチラシ写真を「深井」の近くで撮影するときに、加津子さんは現場にいて、照明で手間取っている私を見て助けてくれた。その日の夜に、「深井」の2階で打ち上げのようなものがあり、加津子さんが作った唐揚げなどの料理を食べ、帰り際には、店の表の看板を背景に、深井さんと加津子さんの写真を撮った。それ以来、顔を合わせれば声をかけてくれるようになった。

加津子さんとふたりきりで長く話すときが一度だけあった。妻が妊娠をして、切迫早産の診断を受け、立つことを禁じられていたころで、FUKAIPRODUCE羽衣と一緒に作った映像作品の川崎でのお披露目の日、晩ご飯を作るために、打ち上げには参加せずに帰ろうとしていたら、加津子さんも先に帰るとのことで、車で自宅まで送った。お気に入りのクリーム入りのあんぱんをくれて、ふたりで食べた。それまで身内以外、誰にも相談していなかった妻のことを、助手席に座る加津子さんに話していた。加津子さんはとにかく励ましてくれた。同じように切迫早産の診断を受けて無事だった知人の話をしながら、きっと大丈夫だよと言ってくれた。車から降りるとき、食べさせてあげてと、あんぱんをひとつ持たせてくれた。

深井さんと連絡を取り合って、今回の出演を見合わせることになった。深井さんは毎日病室に通っていた。日髙さんも、撮影のとき以外は病院に行き、ずっとそばにいるようだった。ライブシーンの撮影をする4日前、加津子さんが亡くなったと日髙さんから知らせを受けた。枕花を持って、妻と娘を連れて加津子さんの家に行った。まだ歩けなかった娘は、加津子さんが眠っている横に座って、日髙さんからもらったジョアをうれしそうに抱えていた。それを見て深井さんも日髙さんもわらっていた。告別式の日、葬儀委員長を務めていた日髙さんは、ほんのすこしの合間に声をかけてくれて、次の日の撮影についての話をした。夜になって改めて連絡があって、あしたの撮影、深井もいきますと知らせてくれた。

若いころにシャンソン歌手だった加津子さんが「プカプカ」を歌う姿を撮ったことがある。『サロメvsヨカナーン』の表題曲「サロメvsヨカナーン」がカラオケに入ったことを祝って、関係者みんなでカラオケボックスに行った日、めったに歌わない加津子さんがせがまれて「プカプカ」を歌った。照れながら歌う加津子さんを、持っていたiPhoneで撮影した。そのひと月後には、渋谷のイベントスペースでお祝いのイベントも開かれた。舞台上で「サロメvsヨカナーン」を歌っていた深井さんは、サロメが年老いた母親と最後に添い寝するくだりになったとき、客席に降りていって、加津子さんに手を伸ばしながら歌い、加津子さんはいつもの通る声で「まだ生きてるよー!」と返し、会場は笑いに包まれていた。深井さんが舞台に戻ってサビを歌いはじめると、加津子さんも客席で一緒にその歌詞を口ずさんでいて、その姿をビデオカメラで撮影していた。加津子さんに会ったのはその夜が最後だった。父が亡くなったころ、たまたま家のビデオカメラで撮っていた父の姿を見返していたことを思い出し、葬儀からしばらく経ったころ、そのふたつの映像をつないで深井さんに送った。

『サロメvsヨカナーン』に関わって以来、FUKAIPRODUCE羽衣の公演やライブをたくさんビデオカメラで撮ってきた。笑い声が聞こえて、その日の加津子さんの座っている位置がわかる。

『自販機の光にふらふら歩み寄り ごめんなさいってつぶやいていた』にはふたつの自販機が出てくる。ひとつは柚木石油の待合所にあって、もうひとつは湖にある。深井さんの写真を初めて撮ったのは、その湖の自販機の前だった。FUKAIPRODUCE羽衣『よるべナイター』のフライヤーのために撮影した写真。加津子さんの部屋に行ったとき、眠っている横の棚に飾ってあるのを目にした。今月、ひさしぶりに深井さんの写真を撮る約束をしている。

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