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競馬を中心に考える動物福祉について

競馬 Advent Calender 2020の12月18日。

このnoteを観ている方の多くは競馬ファン、ないし競馬をある程度知っている人であると思われる。

であれば、年間で競走馬が約7000頭生産され、そのうちほとんどが行方不明になっていることを知っているはずだ。

そしてYouTubeで競馬に関する動画を視聴したときに「競馬なんて残酷だ」「動物虐待反対!」なんてコメントを見て気分が悪くなった方もいるだろう。

人間は誰しも自分の持つ考えや思考を否定されると嫌な気持ちになるし、それば自分の趣味や好きなことであるならば尚更である。

今回のnoteでは、そういう声から目を背けずに、そのような考えが生まれている背景や、彼らがどのような考えをもってそのような主張をしているのかを説明していこうと思う。

テーマは「アニマルライ」と「アニマルウェルフェア」である。

最初に注意書きをしておくと、私は政治の専門家ではない。
内容に不備があっても突っ込まないでほしい。

①イデオロキーについて

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なによりまず先に、イデオロギーについて触れなければならない。
近藤英子さんの勝負服が似合いそうな単語だが、意味を追っていこう。

Wikipediaでイデオロギーと調べると
①世界観のような、物事に対する包括的な観念
②日常生活における、哲学的根拠
と小難しい説明が出てくる。

簡単に言えば「世の中はこうあるべきだ」という抽象的な思いだ。

「天皇陛下万歳!日本国の発展のため粉骨砕身働くぞ!」
「世界の潮流よりも昔から日本に根付く考え方や文化が尊重されるべきだ!」
「誰もが働かずに楽しく人生を過ごせるようなどうぶつのもりのような世界になればいいのに」
「国家など不要、我々の目指す社会へ、いざ往かんユートピア!」
などなど

人間であれば(無論Vtuberだとしても)誰しもそういう社会に対する思いを持っている。
かく言う私も常日頃「根本凪さんか大原優乃さんのヒモになって一生働かずに過ごしたい」と思っている。

たまにいる「Vtuberであればこうあるべきだ!」と持論を語る人や、「いや、Vtuberはそういう括りがないからいいんでしょ」という人だって、Vtuber業界に対してのイデオロギーを持っていることになる。

各国の憲法は当時の政治家のおじさん方のイデオロギーが反映されたものであり、偏った内容であることが多い。
だからその都度その都度、憲法改正という形で直されていく。
それとは反対に、憲法は改正せず守り続けていくべきだというイデオロギーを持っている人もいる。

人間であれば誰しもがイデオロギーを持っているからこそ、時には協調したり、殺しあったりしながら国家、世界というものが作られている。

これから語るアニマルライツやアニマルウェルフェアもイデオロキーの一つだ。

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上記画像はイデオロギーに殉ずる人たち。
念のため補足しておくが、私の思想とは関係ない。

②生存権について

本題の動物の権利について語るまえに、それよりも大きな括りである生存権に関して話しておこう。

生存権とは文字通り「生きる権利」だ。
人間が人間らしく生きるための権利であり、我々はそれを国家に要求できる。
我々が餓えたり、恐怖に怯えて死にそうになっていたら、政府は国民を守るために行動しなければいけないし、助けなければならない。
命を軽々しく扱ってはいけない、国家の役割の一つは「国民の命を守ること」ということもできる。

ここで動物の生存権という単語に話を移そう。

動物の生存権というと「そもそも生存権は人間が人間のために作った権利ではないのか?」と言いたくなる人もいるはずである。

しかし生存権だって、できた当時は「白人の男性で、富をたくさん有する者」だけの権利だった。

生存権では話が伝わりづらいので、日本国における選挙権の与えられ方で観てみると、

1889年……直接国税を15円以上収めている25歳以上の男性。
1925年……25歳以上の男性。
1946年……20祭以上の男女。
2015年……満18歳以上の男女。

と、権利を受ける存在はどんどんと増えていっている。

つまり、「権利」の対象は歴史的に見ても拡大をし続けているということだ。

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ゴリラやチンパンジーのような大型類人猿は人間に近いという理由から、これまで国際社会で権利を与えることが活発に議論されてきた。

実際に、1999年にはニュージーランドで大型類人猿の法的権利を認める法案が成立した。
これにより「その種自身にとって利益がある」と認められない限り、大型類人猿を研究、実験、教育の場で使用することはできなくなった。

国際社会では動物の権利が実際に立法化されているのである。

繰り返すが、権利を受ける対象はどんどん拡大しているし、今の国際社会では生存権はもはや人間だけのものではないというところまで議論が進んでいる。

③アニマルライツについて

さきほど生存権は動物にまで拡大しているといったが、英語では動物を示すときは「it」という代名詞を使うことからわかるとおり、動物は今でもモノに過ぎない。

そんななかでも「動物にも基本的な権利を与えるべきだ」というイデオロギーが台頭してくる。

それがアニマルライツ(動物の権利)だ。

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そんなアニマルライツだって、全ての命に権利をとは考えていない。

彼らの多くは「苦痛を感じるか感じないか」という箇所でアニマルライツの対象か否かの線引きを行っている。

我々人間に限らず、科学的に痛みを感じることが証明されている動物も生存権を保証すべき対象だ。

逆に苦痛を感じないことがほとんど科学的に証明されている存在としては、植物や細菌などが挙げられる。彼らは権利保障の対象から外される。(ただし近年では植物も苦痛を感じているのではないかという研究もある)

ちなみに昆虫は神経系が確認されているがどこまで苦痛を感知しているかはまだ明らかになっていないため、扱いに関して今も議論が行われている。

アニマルライツ派は、動物の自由を増やし苦痛を減らすことを国家に求めている。

具体的にいえば、動物園や水族館、食用畜産、毛皮生産、動物実験はアニマルライツの理念に反する行為であるから即刻やめなければならない。
人間のエゴで望まぬ性交をさせられ、競争能力がなければその仔は殺されてしまう競馬なんて、今すぐにでも葬り去りたい悪しき興行である。

そして人類は肉食から脱しなければならない。
苦痛を感じない植物のみを食べる、ヴィーガンに移行していくわけである。

④ベジタリアンとヴィーガンについて

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本題からは少し逸れるが、ついでなのでベジタリアンとヴィーガンとはどういったものなのか、その違いについても触れておこう。

日本でベジタリアンというと野菜が好きな人というイメージを持つ人が多いが、それは間違いである。

双方とも肉や魚、それをもとにしたダシを食べないという点では同じであるが、以下のような違いがある。

まずベジタリアンは、卵や牛乳、はちみつのような殺生を伴わないものであれば動物から搾取して食べることができる。

そしてヴィーガンは、上記のような殺生を伴わないものも食べることができない。

同じようなイデオロギーを持つ者でも、どこからを苦痛とするかで考え方が異なるわけだ。

ちなみにベジタリアンのなかでも「肉はダメだけれど魚はOK」といったような都合のいい考え方の派閥もあるようだが、深く突っ込んでいくとキリがないのでこのあたりにしておく。

➄反出生主義について

アニマルライツ派が動物園や水族館、食用畜産、毛皮生産、動物実験といったような経済動物からの解放を目指す根底には反出生主義という考え方がある。

簡単に言えば「人生そのものは負であるからそもそも生まれるべきではない」ということだ。
この考え方は古代ギリシャから存在している思想である。

競馬で例えれば、競走馬は生まれながらにして「レースで走り良い成績を残すこと」が使命とされている。
そのために厳しい日々の調教をこなしてレースで結果を残さなければならない。
事実、競走馬の9割がそのストレスで胃潰瘍になっているというデータがある。
レースで結果を残せなかった馬は処分されるし、結果を残したとしても天寿を全うできるとは限らない。

そんな運命が決まっているなら、そもそも競走馬という経済動物は生まれないほうが幸せなのではないかというのが彼らの意見だ。

「人生は苦しみのほうが多いのだから人間は子供を産むべきではない、それが最大の幸福である」と主張する人がいれば、きっと「いや、人生には辛いことだけでなく楽しいこともある」と反論するだろう。

しかし考えてみれば「生まれたい」と思って生まれた生き物なんて一匹もいないのである。
無論どういう立場で生まれるかを選ぶこともできない。

競走馬で考えず、人間(あなた自身)で考えてみればよい。
富を多く所有する階級の家に生まれた人間であれば自由な時間が多く、確かに人生は楽しいかもしれない。
しかしそうではない一般的な階級に生まれたならば、人生のうち多くの時間をやりたくもない労働にあてなければ生きていくことができない。

どれほど幸福かは立場や環境によって大きく異なるし、そもそも人によって幸福の感じ方は異なるので度合いを測るのは大変難しい。

我々は立場や環境を選ぶことができない。

⑥アニマルウェルフェアについて

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上記のアニマルライツはまだ急進的なイデオロギーとされていて、それよりも保守的なイデオロギーとしてアニマルウェルフェア(動物福祉)が存在する。

アニマルライフとは反対に、アニマルウェルフェアでは人間による動物の搾取を認めている
人間は動物園で動物を見せものにしてもいいし、毛皮を身にまとってもいい、肉や魚を食べてもいい。もちろん競馬を開催してもいい。
ただし、そうした搾取は必要最低限のレベルに抑える必要があるというのが彼らの主張だ。

そして人間が食べるために動物を殺すときに、苦痛を少なくするために可能な限り即死させなければならない。

このアニマルウェルフェアの考えのもと作られたのが1972年の動物愛護法である。
ただし動物愛護法は動物の権利を定めたものではなく、あくまで動物はモノであるが一定の福祉を与えようという内容である。

アニマルライフ派とアニマルウェルフェア派は内容がイデオロギーが全く異なっているため、対立しあっている。

⑦競馬と動物福祉について

長くなったが、ここでやっと競馬と動物福祉の関わりについて触れていこうと思う。

日本近代競馬において、競走馬の福祉水準はどんどん上がっているということができる。
昔は問題が表面化されてから改善されるというケースが多かったが、近年では海外に倣い自発的に取り入れている場合もある。

少し例を挙げて見てみよう。

ハマノパレード事件

1973年の高松宮記念に出走したハマノパレードは残り200mの箇所で前のめりに転倒し競争を中止し、予後不良の診断が下された。
レース後のハマノパレードは苦痛軽減の処置をされることなく屠殺場に送られ、さくら肉として市場で売られた。
その一連の流れをスポーツニッポンの記者が記事として取り上げ、大きな反響を呼んだのである。

時代の流れとともに重度の故障を発症した競走馬については原則屠殺が行われなくなり、手続きが終了し次第薬物投与による安楽死の処置が執られることとなった。
苦痛を取り除き、可能な限り即死させてあげるわけである。

ハマノパレード事件が契機になったわけではないが、この問題提起がなかったら旧態依然のままだったかもしれない。

テンポイント事件

1978年の日経新春杯で66.5㎏の斤量を背負ったテンポイントは4コーナーに差し掛かったところで骨折し競争を中止した。
日本中央競馬界の医師団は安楽死を勧めたが、ファンによる助命嘆願の声が大きく、馬主も種牡馬にしたいという思いもあり、成功確率数%の手術を行うことを決定した。

一時は回復したと思われたが、患部が腐敗して骨が露出していたり蹄葉炎を発症したりと悪化の一途を辿り、ついには治療を中断し自然死してしまった。

テンポイントの骨折事故を受けて日本中央競馬会はハンデキャップ競争の負担斤量を再検討し、過度に重い斤量を背負わせる風潮が改められたのである。

鞭に関する規定

2014年に日本中央競馬会は最後の直線コースにおける鞭の使用について、肩より上部に腕を上げての鞭使用や過度に頻発しての鞭に使用の禁止などの規定を設けた。
さらに2017年には騎手が使用する鞭は痛みを軽減するためにパッド付のものに限定することとなった。

ちなみに競馬に対して「馬を鞭でしばくなんて動物虐待だ!」と唱える人がいる。
それに対して「馬の皮膚は厚く人間と同じような痛みは感じていない。単なるゴーサインに過ぎない」と反論する競馬ファンがいるが、近年のでは神経線維の構造から馬もしっかりと痛みを感じているのではという報告もある。
昔からある手法で反論するのは抑えたほうがよいかもしれない。

上記内容はほんの一部であるが、競走馬の福祉水準が昔と比べて改善された例である。

最近では競走馬の引退後にも注目が集まりセカンドキャリアへの支援が広がっているが、救える頭数はそこまでは増えていないというのが現状だ。
本筋からは逸れるため、引退馬支援についての言及はまた別の機会とする。

アニマルウェルフェアの流れは来ている、引退馬支援が当面の改善点と言えよう。

⑧まとめ

競走馬引退後の悲惨な惨状を書いた記事などありふれているし、そもそも私は競馬実況Vtuberとして活動していることからもわかる通り、アニマルライフ派ではないし競馬廃止論者でもない。競馬がなくなったら困る。

それなのにこのnoteを書いたのはなぜかといえば、競馬廃止論者(アニマルライフ派)の意見を「自分とは価値観が合わない」「外国の関係ない考え方」と一蹴してほしくないからである。

現に権利を受ける対象は広がっているし、今後の日本でアニマルライフ派が大きな勢力になる可能性だってある。

小池百合子都知事が突然「動物権利の観点から○月○日付けで大井競馬を廃止します」と会見を開き、我々を驚かせる可能性だってある。
日本国におけるアニマルライツの浸透度合いや税収面を考えれば全く現実的ではないが。

プロ野球のソフトバンクホークスが強い理由として、豊かな資金をもとに3軍まで作り上げ、ドラフトで大量に選手を指名していることが挙げられる。
競走馬の生産も同じで、強い馬を作りたかったらとにかく数を生産していく。いつか大当たりを引けるかもしれない。

しかし世の中の風潮を鑑みれば、今後競走馬の生産頭数を制限するような動きが起こってもなんら違和感はない。
競争馬のレベルを引き上げることよりも救う命を増やし、一頭一頭の価値を高めるという方向にシフトチェンジするかもしれない。
ディープインパクトが亡くなった際に話題になったように、種牡馬の軽減負担にもなる。

もしそうなったときに自身のイデオロギーをもとに賛成してもいいし、文化的・経済的観点から反対したっていい。

私はこのnoteを通して何かを訴えかけたいわけでは全くない。

競馬Vtuberである私がこの記事を書くことに大きな意味があると思っている。



参考文献
大田比路 『政治的に無価値なキミたちへ 早稲田大学政治入門講義コンテンツ』 Amazon Services International,Inc

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