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日本語の《距離感》

ちょっと気になったことを、ちょっとだけ書く。

ロンドンの語学学校に通い始めて、かれこれ2ヶ月以上が経つ。毎週のようにクラスメイト達が学校を離れ、毎週のように新しい生徒たちがやってくる、そんな環境で、ずっとクラスに残っていくのは日本人のクラスメイト達だ。そりゃそうだ、我々が英語を流暢にしゃべる為には、長期間の勉強が必要なのだ。

日本人のクラスメイト達とは、やっぱり「いざとなれば日本語で話せる」って強み・安心感もあって、結構仲良くなる。毎日学校で顔を合わせているから、当たり前とも言える。年齢もいろいろだけど、特にそんな距離は感じずに暮らせてきた。

英語で話す、間だけは。

英語で話す間は、クラスメイト達とはお互いに呼び捨てで呼び合う。
そういう、言語だから。

でも学校を出て、例えば週末の予定を相談する為なんかに日本語で話をすると、途端に『敬語』が出てくる。『さん付け』が出てきて、語尾が『です・ます』口調に固定される。

毎日顔を合わせているクラスメイト達が、一気に『他人』に思える。

わかる。わかるよ。自分も日本で、日本語で育ったから。もちろんその気持ちはわかるし、自分もつい、敬語で話しちゃうんだけど。

でも、なんだか悲しくなる。
これまで築いた人間関係は、どこに行ったんだろう?

大学時代、いろんな国の人たちと交流するような活動をしていたのだけど、海外の人たちは(英語をしゃべる人たちは)、本当にフランクで、文化的に「人間と人間の距離が近い」ように感じる。

それに比べると、日本人は他人と大きく距離を取るように感じる。そういう気風から出てきた「日本語」にも、その傾向は顕著だと思う。そして、現代の日本人は、知らず知らずの内に、その「日本語」の特性に影響を受けて、どんどん「距離を置く」特性を強めていく。

日本人でも、英語で話す時の方がテンション高かったりするけど。
「言語」と「性格」って、無関係じゃないんだろうな。

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