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【Clubhouse連動】ヤムナーとともに〜どうなるSYL計画⁉️〜

はじめに

こんばんナマステ❤️Kyoskéこと暑寒煮切(あっさむにるぎり)だよっ⭐️

今日はClubhouse『インドの衝撃(インド大学)』でヤムナー川について話してきたので、そのアンチョコを上げていくね⤴️

さて、本日は徳仁天皇の誕生日。

ピンと来る方もいるかもしれないけど、徳仁天皇は水運史の研究者で、学習院大学で中世の瀬戸内海、オックスフォード大学で近世のテムズ川の水運を研究した。

祖父の昭和天皇や父の明仁上皇、弟の秋篠宮文仁親王がみな生物学の研究をしているなかで異色と言われるけど、

皇太子時代は「水の殿下」と呼ばれ、実際に世界水フォーラムなどで講演するなど世界の治水問題にも積極的に関わってきた徳仁天皇をオマージュして、

今日は現代北インドで最も重要な河川であるヤムナー川の話をしてみたい。

ガンジス川の引き立て役だったヤムナー川

ヤムナー川はオールドデリーの横を流れてるあの川で、タージマハールの真ん前を流れているあの川。

この川をガンジス川だと思ってる人が多いのは、インディラ=ガーンディー・ラジーヴ=ガーンディー元首相がマハトマ=ガーンディーの親戚だというのと同じくらいの大きな勘違いだけれど、

ただ、ガンジス川の支流なのであながち間違いとも言い切れない。

また、ガンジス川の汚染は、確かにガンジス川にもウッタルプラーデシュ州カーンプルのような工業都市はあるけれど、

ほぼデリーをはじめとしたヤムナー川から流れ込んできた汚染といっていい。

ヤムナーはヒンドゥー教の女神で、太陽神スーリヤの娘、死の神ヤマの双子の妹ヤミとされる。

ヤマってこの人のことじゃなく、

閻魔様のことだよ。もしかしたらこの人もそこから取っている可能性もあるけど。

ヤマはサンスクリット語で双子という意味だけど、ヤムナー川がそー呼ばれたのはこの神話云々というよりヒンドゥスタン平原、今のウッタルプラーデシュ州ではガンジス川とほぼ並行して流れているからだという。

言ってしまえばガンジス川のおまけだったわけ。

水源はヒマラヤの中腹、ウッタラカンド州ヤムノートリーにあり、もちろんそこは聖地になって寺院が建っている。

ヒンドゥー教徒が一生に一度行きたい聖地というとインドの東西南北を一周するとかそんな感じで、こちらはヒマラヤ中腹の4つの聖地を「気軽に」周る秩父や福岡の篠栗のようなミニ霊場という扱いで遠くから年イチで訪れるような人も少なくない。前者をチャールダーム、後者をチャーターチャールダームというんだけども。

ヒマラヤを降りて、ウッタルプラーデシュ州とハリヤナ州の境界線になっており、そしてデリー、聖地マトゥラー、古都アーグラーを通り、ウッタルプラーデシュ州を横断して東端にほど近いプラヤーガラージ、またの名をイラーハバードと呼ばれるところでガンジス川と合流、この合流地点をサンガムという。

正式にはトリヴェニサンガムといって、サンスクリット語、ヒンディー語で「トリ」がつけば印欧語族なので3つのってことになる。

あとひとつは何やねん、というとサラスヴァティ川のことで、サラスヴァティは弁財天のこと。

当たり前の話だけど、日本の弁天様は「平たい顔族」的な美女で、サラスヴァティはインド的な美女に描かれているよね。この視点をイエスキリストや聖母マリアの絵画に持っておくといいと思うよ。あんな西欧白人の顔をしているわけがないじゃないか。

サラスヴァティ川は本来はインダス川に並行してアラビア海に注ぐ川のはずで、これが干上がったことでインダス文明が滅びたという伝承があり、今その地はタール砂漠となっている。

そしてヤムナー川は地殻変動で東に向きを変えてガンジス水系になったことがわかっており、ヤムナー川がサラスヴァティ川に合流しなくなったことがインダス文明を滅ぼしたという説がある。

何にせよインド史の表舞台はヤムナー川の流れのようにインダス川からガンジス川へとシフトした。

そしてサラスヴァティ川までもが地下を流れてイラーハバードのサンガムに流れ込んでいることになってしまい、エローラーの石窟にも3つの川が隣接して描かれている。

それでもヒマラヤの南にある地はインダス川、もっといえば河を意味するシンドゥを語源とする言葉で呼ばれ続け、西洋ではインド、東洋では天竺となる。

釈迦と関係の深いマガダ国、アショーカ大王のマウリヤ朝、クシャーナ朝、グプタ朝といったインド亜大陸の広範囲を支配することになる国はみな、ガンジス川とヤムナー川に挟まれた地ドアーブに拠点を置いた。

そこが一番肥沃であり、それは現代でも変わらない。バスマティライスの産地であり、工業にも適したこのエリアに今でも全インドで最も多い住民がいる。

ヤムナー川の躍進~デリーが要衝になった理由

そんなヤムナー川がガンジス川よりも重要になったのは、デリーの発展によるもの。

デリーは『マハーバーラタ』に描かれる古代都市インドラプラスタに起源を持つといわれ、これは現代インドがデリーを首都とする根拠にもなっているけれど、その地形と一致するプラーナキラー周辺をいくら発掘しても、そこに都市があった証拠は見つかっていない。

デリーが主要な都市となったのは、13世紀のマムルーク朝を嚆矢としたデリースルターン朝から。

デリースルターン朝はデリーを中心に北インドを支配した5ないし6つのイスラーム王朝の総称で、数えるか数えないかの意見が分かれるのがムガール帝国初期のライバルだったスール朝。そしてムガール帝国、ブリティッシュインディア、今のインドまで実に9つの政権がデリーを居城としてきた。

デリーはなぜ主要なところとされたのか。

もちろんそれは、インド亜大陸の北西にやってきたイスラーム王朝から見て近かったからでもあるけれど、ヤムナー川の向こうにありそれまでのインド史の表舞台だったヒンドゥスタン平原と、ペルシャから見たインド亜大陸の入り口でイスラーム王朝の拠点になったパンジャーブ平原の中間にあり、東にヤムナー川、南と西で丘陵に囲まれた交通の要衝だったということに尽きる。

ヤムナー川だけでなく、インダス水系のサトレジ川にも近く、いわばガンジス川・ヒンドゥー教圏とインダス川・イスラーム圏を両取りできる立地だったということになる。

ただしデリーは洪水が頻発し、地震にも弱い。スール朝からデリーを奪還し、その地の利を生かしてインド亜大陸の広範囲を制圧したムガール帝国がアーグラーやラホールに遷都を繰り返したのも、デリーの災害に対する脆弱さがあるといってもいい。

そのため14世紀には西ヤムナー運河が掘られるなど、治水が盛んに行われるようになり、それは今でも続いている。

ヤムナー川は当然水運にも用いられ、19世紀には蒸気船も行き交った。特に英国が様々な運河を掘っていったことで水運は大きく発達するも、比較的早い段階で鉄道に取って代わられることになる。

また、川底に土が溜まって水が不足するようになり、今世紀初頭以降は旅客・貨物のための船はヤムナー川を走っていない。

インド全体で内陸水運があまり普及しなくなり、すべての交通機関におけるシェアは0.5%ほどだという。ちなみに隣国のバングラデシュは35%を内陸水運に頼っている。

バングラは多過ぎにしても、欧米や中国など大きな川のある国なら1割弱はあるものなのよ。日本は無理よ、念のため。外国人が瀬戸内海を見て「なんだ、日本にも大河があるじゃない」と言ったなんていうけれど。

インドは大河を持ちながら極端に内陸水運が遅れているということで、2016年に全国水路法が制定されて106のナショナルウォーターウェイが制定されヤムナー川もそこに含まれることになった。

そして、この年にデリーからアーグラーまでの区間が調査され、デリー市内のワジラバードから川を上ったハリヤナ州パッラまでは汚染が少なく、船の航行に十分な深さがあることがわかり、水上タクシーの運航に向けた準備が進んでいるという話が2010年代後半には見られたけれど、音沙汰がない。

デリーの飲料水はオールドデリーの13km北にあるワジラバードにある堰が下流の汚染を上流に行かないよう止めていて、上流の水を市内に流している。したがって、その区間に船を走らせることに対しては多くの抵抗があったようだ。

また、ワジラバード以南は水質が悪過ぎて内陸水運の復活は時期尚早ということになった。デリーからアーグラーへはオランダが別で動いているような話もあったけれど。

本来でいえばデリーから通勤渋滞の激しいノイダやファリダバードへの通勤船やマトゥラー、アーグラーへの観光船、そして貨物船を想定してこの区間を調査したはずなのだけど💦

インド全体では内陸水運への投資は進んでおり、

バングラとの間に国際内陸水運も芽生えつつある。

これRマニアがスワンボートで通ったルートだよね。

政府は2020年、海運省を港湾・海運・内陸水運省(the Ministry of Ports, Shipping and Waterways)に改組した。

ヤムナー川の汚染対策には日本の援助も入っている。

インド史の表舞台に出たからこそ、近代化の矛盾を一手に引き受けているヤムナー川の汚染。

いつの日か水質が改善されて、デリーからイラーハバードを超えてヴァラナシ、コルカタまでのんびりとクルージングしたり、タージマハールの前でカヤックとかしてみたいよね。

徳仁天皇のオックスフォード大学における論文は『The Thames as Highway』といったけれど、The Yamuna as Highwayと呼べる日がくるのだろうか。

北インドの水運を変えるSYL計画

ヤムナー川がインド史の表舞台に躍り出たのは、前述の通りガンジス川系のサトレジ川の存在も大きい。

そして、そのヤムナー川とサトレジ川を繋げる計画があるのをご存じだろうか。

それが、Sutlej Yamuna link canalで通称SYL。

214kmの運河を掘って、くっつけちゃおうということなんだけども。

なぜこれをくっつけちゃうのかというとね、コルカタやチェンナイなどベンガル湾側からするとアラビア海に行くのに、インド亜大陸最南端のコモリン岬を経由して超めんどいわけ。

だったら、ガンジス川、ヤムナー川、サトレジ川、インダス川という風に通った方が楽じゃん、せっかく近いところにヤムナー川とサトレジ川が通っているんだからさ、ってこと。

スケールは全然違うんだけど、チーバくんの鼻の話によく似てる。

幕府の政策で江戸川と利根川をくっつけたことで、それまで江戸から仙台方面に行くのに、いちいち房総半島を回っていたのが一気に楽になったんだよ。

ちなみにさらにショートカットしようと、野田・流山あたりに運河も掘ったんだけど、すぐに東北本線に取って代わられてしまう😢

これが東武野田線の運河駅のこと。

さて、SYLの発端は水運というよりパンジャーブ州とハリヤナ州の水資源争いからだった。

1966年にパンジャーブ語・シク教地域とヒンディー語・ヒンドゥー教地域でパンジャーブ州を分割することになり、後者がハリヤナ州として独立することになる。なお、パンジャーブ州の州都だったチャンディガールは独立した連邦直轄領となり、両州の州都でもある。

1982年、インディラ=ガーンディー政権下で運河の開削がスタートしてハリヤナ州区間は順調だったけど、パンジャーブ州の政権が代わるとそれがストップする、というような状況が続いた。

1990年にはカリスタン(パンジャーブ州にシク教徒の国をつくろううとする一派)の運動家がSYLの技師長を射殺して工事が完全にストップしてしまう。

水資源確保のためにSYLが欲しいハリヤナ州は1999年に最高裁に訴え、2002年に最高裁はパンジャーブ州にSYLの残り区間を建設するよう指示。

それをパンジャーブ州が拒否って、その後もずーっとバチバチやってる。

事の発端は、両州が独立する際にパンジャーブ州側にある水の供給についてちゃんと決めなかったことにある。それで、パンジャーブ州はおまえらなんかに命の水を一滴もくれてやるもんか、ってことになった。

パンジャーブ州で当時の国政与党国民会議が政権を取った時に、SYLをスタートしたけど、再び地域政党が政権を取り返すと膠着するということになっている。

んで、今年1月に連邦水資源相が両州から首相を呼んで話し合わせたという次第。

現在は国政与党がインド人民党になり、ハリヤナ州も人民党政権だけど、パンジャーブ州はデリーを中心に支持を延ばす庶民党政権となっている。

人民党と庶民党は対立するけれど、以前のように何が何でもシク教やパンジャーブ語を軸にしたパンジャーブ至上主義の政党ではないから、うまくパンジャーブにも利益になることを示せれば動く可能性はある。

ただ、パンジャーブにおける反連邦政府の象徴ともなってしまっているSYL問題、そう簡単には収まりそうにない。

水資源を巡って世界中で争いが起きており、パンジャーブとハリヤナの争いの向こうにはインドとパキスタンの水資源争いがある。

リニアのトンネル掘削を巡るJR東海と静岡県の争いにしても、甘く考えない方がいい。

徳仁天皇は水の専門家として、メコン川やナイル川の問題と同じくらい大井川のことにも頭を悩ませているのではないか。

コロナ禍が落ち着いてきた今、天皇訪印という話も出てくるだろう。

その時、ヤムナー川の問題、SYLの問題について是非悩めるインドになにか智慧を授けてもらえないものかと思う。

ヤムノートリーから湧き出た水をもう一度アラビア海に戻すというのは、インダス文明以来のインドにおける水の歴史の転換点になるだろう。

おわりに

今日はClubhouseのフィードバックで、

マレーシアに水資源を依存するシンガポールが脱却するために海水の飲料水化を進めている話、

インド映画における川の描写など、川の流域のように広がっていく話を色々いただいた。

川の話もいいなぁと。

ガンガーやインダスもそうだけど、ケーララのバックウォーターとかね。

そのへんもまたやっていこうと思うのでよろしく❗️

それじゃあバイバイナマステ💙暑寒煮切でしたっ✨

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