怪物はいないのだろうか
私は常々思っていることがあって、凶悪な犯罪者や異常な思想家たちは幸せになることを諦めなければいけないのだろうか。もちろん、他人の命や安全を脅かすことなど肯定できるはずはないけれど、彼らが幸せに生きていくことを否定することもまたできないのではないだろうか。
※こちらは映画『怪物』の鑑賞感想文で、作品の重大なネタバレを含みます。『怪物』はミステリーに当てはまるのかはわかりませんが、登場人物の視点によって真実が異なり、少しずつ事実が明かされていくことで、小さな違和感や心地の悪さがどんどん回収されていく構成になっています。そういうことだったのか、と気付いたときの背中がひやりとするあの感覚をぜひとも味わっていただきたいので、ネタバレ余裕という方もぜひぜひ鑑賞後にお読みいただければと思います。
『怪物』から一ヶ月
私が愛してやまない坂本作品の最新作『怪物』を大好きな友人たちと一緒に観に行くことができた。冒頭のほうの「あ、白線はみ出たら地獄ねー」「子供の頃の話でしょ!」「ふ、子供じゃん…」という本当に他愛無い会話を聞いて、(あぁ、これだ)と思った。芝居がかっていない、なんでもない日常の中にある、血の通った言葉たち。劇場ながら思わず小さなため息が出た。
私はたくさんの坂本作品を観てきたけれど、一ヶ月経たないと感想文も書けないくらいに圧倒されたのは初めてかもしれない。魅力あふれる人物、あたたかいセリフ、繊細な演技。視線や小物の位置だけで何もかも説明してしまうような、画面の全てに意味があるまばたき厳禁の謎解きゲーム。その小さな伏線に気付くと、優しくて、切ないのに嫌じゃなくて、何度でも味わいたくなるのだ。実際に何度も繰り返し観ている作品もあるし、中には放送されたその週に2回目を観ていたドラマもある。
しかし『怪物』は違った。観終わったあと、それこそ怪物か何かが体中を駆け巡り、何もかも食い荒らして、さっと走り抜けていったのかもしれない。抜け殻になった私には、(すごかった…)という感情しか残っていなかった。そして怪物に捧げる肉なき今、もう一度この映画を観る気にはなれないのだ。
味のなくならないガムかい
とにかく情報が多すぎた。そして気付いた、私は恋をするために坂本作品を観ている節がある。ストーリーというよりも、セリフや感情、登場人物の優しさに惚れたくて、それらを見逃さないことだけに集中している、のかもしれない。だから鑑賞直後に聞いた「誰もが怪物になる要素を持っている」という知人の感想に(え、そんな話だったか?『JOKER』じゃあるまいし…)などと思ってしまったし、ラストシーンの解釈についても他の解釈ができるなんて思ってもみなかった。
だけど私もただ湊くんに胸をときめかせ、上目遣いでスクリーンを見つめていたわけではない。観終わったあとも、余韻だけを噛み続け数日経ってあとからつらくなることが何度もあった。
ベランダから乗り出す湊くんの服を掴む動作細かいな。水筒に砂利を入れられるから、この前は水筒を持って行こうとしなかったのかな(これは結局深読みだった)。依里くん、ひらがなが反転しちゃったり音読がスムーズじゃなかったり文字が苦手なんだろうな。確かに依里くん服装も女の子っぽいかも。「知らないおばちゃん勝手に上げてお母さんに怒られない?」「怒られないよー」の裏側(依里ママは別居中)。依里くんがからかわれる時にネタにされていたオネェタレントが出るテレビを母親と観なければならない気まずさ、ただただ息子の笑顔を見たくてそれを真似ておどける母親、それに応えて笑う湊くん。インターホンにガムテープを貼っている星川家(たぶん児相とかがよく来るんだと思う、と友人が教えてくれた)。身に覚えのないことで責められる納得のいかなさと恐怖、おまじない代わりの飴玉。兜にも船にもなる折り紙(これも友人が教えてくれた)は、きっと「生まれ変わり」を象徴するモチーフ。言葉にできない思いを乗せた演奏が届き、保利先生を救った。
この他にもたくさん気付いて考えたことはあったはずだけど、やはり湊くんの好きなところを挙げるほうが早いかもしれない…。私が(坂本作品を観ている!)と感動した「はみ出たら地獄」という言葉が湊くんたちにとってどれほど重い意味を持つか、ということにすら気付けなかったのは本当に悔しい。やっぱり何度も観ないとダメか、これ。
そしてラスト、子供たち二人が命を落としてしまったという解釈。確かに雨上がりのタイミングに違和感はあった。だけど私は当然、二人は生きているものとしてラストシーンを目に焼き付けていた。閉ざされていた扉は強風で吹き飛ばされたのだろうとすんなり受け止めていたし、「生まれ変わったかな?」「そういうのはないと思う」という会話も、電車のほうを見ながらしていたものだから(電車に対して言ったのかな?どういうこと?)なんて頓珍漢なことを思っていた。もしもラストは二人の死後の世界なのだとしたら、電車の中には元・湊くんと元・依里くんがいるはずである。それなら電車のほうを見ていた説明がつく。まだ雨が降っているうちに電車にたどり着いていたはずの母親たちと再会したシーンがないことも、ポスターでは二人が泥まみれであることも、全部納得がいく。
しかし、(脚本家、監督の両名が「二人は生きていると思う」と発言していたらしいことはこの際置いといて)私はやはり二人が生きていると思えるように作られていると感じる。本当に死んだということにしたいのなら、母親たちが遺体そのものを発見するまでのシーンはなくとも、「電車の中に落ちている靴がちらりと映っていたのに、ラストシーンでは二人とも靴を履いていた」くらいの描写はしそうなものだと思うのだ。少し乱暴な論理だけれど、他に坂本作品を11本観てきた私の勘がそう言っている(同じく坂本ファンの友人もそう感じたようだ)。
だけど白黒つけなくていい。白なときもあれば黒なときもある。どっちでもなくグレーな場合さえある。だからそのままでいいよ。これはほとんど全ての坂本作品に通ずる価値観で、ラストの描き方にもそれは反映されているのかもしれない。あのまま子供たちを亡くしてしまったら大人たちはどうなってしまうのか、ということを考えると絶対に生きていてほしいし、人とは違うかもしれないけれどみんなと同じように幸せになってほしいと思う。ありのままで生きていってほしいと願う。観た人の多くがそう思えるのだとしたら、この作品があることでこれから救われる人がきっとたくさんいるだろうと思う。
怪物だーれだ?
結局、怪物とは誰だったのか。これについては、私の知人を含めた多くの人が答えを出していたとおり、「誰もが怪物としてみなされる可能性があるけれど、怪物なんていない」。作中の「怪物だーれだ」というセリフはゲームの掛け声だったけど、あれは自分から見えない手札を当てるゲームであって、特に怪物を探し当てるゲームではなかった。もしかすると、怪物を引くか正解するかで勝敗が変わる特殊ルールがあるのかもしれないけれど、それを感じさせる描写は一つもなかった(関係ないけど、圧倒的知識量と推理力で依里くん圧勝かと思いきや、互角にやり合っていた湊くんすごい!かっこいい!)。こいつは怪物だと晒し上げることに意味はない、あなたも私も怪物で、怪物なんかじゃない。それでこそ、意味のあるメッセージが生まれる。
けれど、本当にそうだっただろうか。坂本作品に出てくる人物は、基本的にみんないい人である。癖があったり、どんなにひどい人間に見えたりしても、優しさやかわいい一面、相応の事情が垣間見え、結局ほとんどは魅力的な人なのだ。ただし中には深堀りされることなく、最後まで絶対的悪役であり続ける人もいる。他の作品ならばそれでもいいのだが、「怪物なんていないよ」と語りかける本作で、そんな人がいていいのだろうか。いいのでしょうか、ねぇ、校長、依里パパ?
校長に関しては、少しだけ優しさを知ることができた。しかし、「孫を”不慮の事故”で亡くしてしまったから、おかしくなっていただけですよね」とは素直に言い切れない。”車の近くで遊んではいけないとあれほど注意したのに、痛い目に遭わせないと分からないのか!”とわざと轢いたのではないかと想像してしまうような陰は確かに感じさせる。なんだかイケてない、火事現場の近くにいた、というだけで保利先生がガールズバー狂いだと決めつけるような人たちの噂話ではあるけれど、根拠が全くないわけではないのだ。体罰をさほど問題視しているようには見えないのは明らかだし、音楽の指導をしなくなったのだって、校長になったというだけが理由なのだろうか。
依里パパにいたってはほとんどその背景が描かれず、同情票も全く入らないままエンドロールを迎えていた。過去の栄光にすがってなんとか自分を棚に上げ、少しでも粗のある人間は全員見下していそうな言動。暴力も平気で振るくせに外面だけは良く見せたそう。なんとなく求職中っぽい。どれが理由で奥さんは出て行ってしまったのだろう。それとも奥さんが出て行ったショックで、こんな風になってしまったということなのだろうか。
これは私たちへの最終試験なのかもしれない。それとも宿題?最後まで怪物として描いた人物たちを、怪物と呼ぶのかどうか。怪物に見えた人たちにも、生きてほしい、幸せになってほしいと願えるかどうか。
怪物だーれだ?
私は、優しいですか?私は、あなたを傷つけていませんか?
私は、怪物ですか?
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