当たり前という特別
当たり前というのは、すごく個人的なものなのだということを忘れそうになる。
"当たり前"だが、ここでは「りんごが木から落ちる」「1+1=2」といった法則や理論のことは考えない。
ただこの法則や理論を知っている、ということは当たり前などでは決してない。
「1+1ができるのは当たり前」と思ってしまいがちだけど、それは知識や経験、技術、努力によってようやく手に入れられる、個人的で特別なものなのだと思う。
話を聞き言われた通りにする、説明を読み形式を守る、針に糸を通してボタンを縫い付ける。
私はこれらを当たり前のように行っているけれど、周りにはそれができない人も少なくない。
それが自分にとっては無意識レベルの当たり前であればある程、「なぜこんなことが…?」という気持ちになってしまうけれど、これは人の心を傷つけ、友好関係を壊す可能性もある極めて取扱注意な感情だ。
同じ遺伝子を持っていても、同じ時代に生まれても、同じ職場にいても、同じ音楽が好きでも、同じ価値観を持っていても、同じ人間ではない。これは数少ない「ほぼ全人類に共通するであろう当たり前」の一つだ。
それを忘れてしまうから、みんな当たり前のような顔でできていることをできない自分がどうしようもない落第者のように感じてしまう。
食事を楽しむ、面と向かって容姿や性的魅力を褒める、少し個人的な質問をする、ストレスがあっても仕事を続ける、休日を大勢の友人と過ごす、好きな人と付き合う。
私が勝手に「みんなにとっては当たり前」と思っているだけなのは理解しているし、「多数 = 当たり前」という認識が拭えていないからだというのもわかる。
だからそれは特別なことなのだと改めて肝に銘じたい。
私は大きな音が苦手だし、家事はサボりがち。臆病で、なにもかもに遠慮している。好きになってくれた人を好きになれないし、好きになった人には好きになってもらえない。
それが不変で揺るぎない私だけの特別な法則で理論なのだと思おう。そうやって、みんなのようになれない自分と折り合いをつけていくしかないのだ。
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