深夜高速
歳を重ね、いろいろな経験を積むにつれ、しぬべき、自分をころしたいと思うことはほとんどなくなってきたけれど、それでも「もういきていけない」と思うことは年に何度かある。
共感してもらいたいわけでも、励ましてもらいたいわけでもない。誰かに話しても、お互いに嫌な思いをするだけなので、面と向かっては話せない。
心優しい友人たちが、何かしてあげられなかったかなと気に病んでしまわないような方法で、今すぐ人生が終わってくれないかなと毎秒思う。
泣きたいとか、休みたいとか、逃げたいとか、別の動詞に置き換えられないか考えてみなさい、というアドバイスを見かけたことがある。
考えてみる。
だけど見つからない。人と同じ考え方ができない私は、どこにいてもそのうち上手くいかなくなる。見つかるのは嫌な自分だけ。
自分が悪いくせに、神の子気取りで「この腐敗した世界に堕とされてどうやって生きていけばいいのだ」と口ずさむ。
本当に、本当に他にないか、考えてみる。
心当たりがないわけじゃない。愛されたい、必要とされたい。そうすればきっと、苦しい日々を越えていける気がする。だけど相手の気持ちは自分ではどうしようもないことだし、極端に言えば、もしも私が世界中に愛されていようとも、足りない、もっと愛されたいと私が願ってしまったなら絶対に満たされることはない。
もちろん私は世界中に愛されてなどいない。片思いしかしたことがないし、きっとこれからもそうなのだと思う。この地球では、慣性の法則を無視できないから。
もしかしたら、顔も体も髪も声も話し方も考え方も好きなものも嫌いなものも全部変えてしまえたら、愛してくれる人が現れるかもしれない。
だけどそれはもう私ではない。どのみち私はしぬのだ。それならば、私は私のままでしにたいと思う。小さな箱の底に残された、なけなしの自己愛。しぬときまで大事に取っておけたらいいな。ないほうが楽なのかな。
そんな夜に『ビューティフルボーイ』を観た。彼が生きていて本当によかったと思った。自分を重ねることはなかったけど、とにかく、生きていてくれたことが心から嬉しかった。
生きててよかった
生きててよかった
生きててよかった
そんな夜を探してる
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