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仕組まれた回心

良い人だと思って仲良くなり、そこで魅力的な考えや行動を教えてもらったその先に固い信念を築き上げる現象。いわゆる”マインド・コントロール”と呼ばれるものが現実にあるらしいということは、以前に比べて随分、人口に膾炙するようになりました。日本社会でのきっかけは1993年の統一教会結婚式に参加した著名人が、そこから離脱する過程でメディアに話したことでした。それ以前に日本社会でマインド・コントロールの語を広めたのはスティーブン・ハッサンの翻訳書。スティーブン・ハッサンは元統一教会幹部でした。

その次の大きな機会はオウム真理教による犯罪行為。なぜあのような犯罪 に至ったのかを説明するのに、上記と同様の現象が介在していたとみられました。

この用語が人口に膾炙し、これらの団体に限らず、どうやら当初思っていたのと違う固い信念が作り上げられる現象がみられるようだと認識もされるようになりました。このこと自体は社会の進歩だったと思いますが、人口に膾炙し、各々が自分の考えるマインド・コントロールを解釈しだすと、今度は述語が濫用されるようになりました。なにせマインドとコントロールというシンプルな語彙で作られた言葉ですから、元々は目的をもった一方的な操作、しかも他者の利益を搾取するような方向性を包含していたにも関わらず、拡大解釈されて、社会も学校も我々をマインドコントロールしていると言い出したり、自分をマインド・コントロールするなどセルフ・コントロールと混同して使われるなどしました。挙句の果てに、だから一方的な搾取に彩られたマインドコントロールなど存在しない、それは特定団体を叩くために作られた詭弁に過ぎないという乱暴で雑な議論まで持ち出されることになりました。

現実的に現象はあって社会的なコンセンサスはかなり形成されているのに言葉や概念を構築するのは難しい状態は悩ましいものです。ベストな回答は見つからなくても、より使い勝手いい、納得しやすい表現はないものだろうかと考えていました。

そこで宗教に類似する信念に限っての話ですが、回心という現象に焦点を当ててはどうかと考えました。ある信念に辿り着き、それまでの個人の視座が変わる経験を回心と位置付けます。回心自体はどんな宗教の文脈でも起こり得るニュートラルな現象です。これによって個人の生き方が変わった、いい意味で利他的になれた、いい意味で自分を受け入れることが出来るようになった、などの”効果”も得られることがあります。

多くの宗教的信念における回心は個人の文脈によって起こるものですが、のちに搾取性が露わになる回心、すなわち従来マインド・コントロールなどと呼ばれてきたものは「仕組まれた”回心”」と言えるのではないかと考えています。ただの回心ではなく、仕組まれている、というところがミソです。

では「仕組む」のは誰かが気になりますが、ここが単純ではないのが、良いことをするつもりの信念において難しいところです。良いことをしているつもりなのですから、相手から奪ってやろうとは思っていません。詐欺とか自分だけが上手い汁を吸ってやろうとは、多くの場合は思っていないのです。相手のために良かれと思って立ち働き、結果的に搾取構造に陥らせるのが、この問題の複雑で悪質なところです。

「仕組む」のが誰かがわかりにくい理由は、同じ信念を共有している仲間うちでは、それが良心から発動されると信じられているからです。仲間内では、それは作為的なものではありません。人間は社会的動物ですから、ある組織の信念に馴染んだら、自分の行動の多くを周囲の基準に合わせるようになります。周りの人もやっている、ごく普通の行動だし、何ならそれは良きことであり、理想的な振舞いなのです。周りの人たちも自然に行っている行動なので、それ以上の意味は考えません。しかし、それが場合によっては集合的に搾取として働くことになります。

マインド・コントロールの語が元の定義や文脈を離れて好き勝手に解釈される理由の一つは、このような事情があるのかもしれません。意識的にはやっていないので、わざわざコントロールしようとしていないし、コントロールされるわけがないと信じているのです。ここには人間における自立性・自律性神話が関わります。マインドコントロールの背景にある社会心理学をはじめとする心理学は、人は自分が考えるより多くの周囲からの影響を受けていることを明らかにしています。個人が意識も認識もしていないうちに、です。まずもって、この点が一般の方に受け入れられ難いのかもしれません。自分の手綱を自分で握っていないと気付くのは、不安なことかもしれませんからね。でも、卑近な例でいえば私たちはコマーシャルの影響を受けています。その程度なら理性的な買い物をしていると思うかもしれませんが、3点買うと割引とか、特売は明日まで、と書かれた場合、心はどう動くでしょうか。興味のない品物なら素通りでしょうが、前から欲しかったと思っていた品物なら?こういった些細な違いにも、人は影響を受けるのです。

さて、こうした自覚なき”仕組まれ”はどう発生してきたのでしょうか。これは明確になる機会は滅多にありません。搾取的な団体の上層部が改心して社会に暴露するぐらいしか方法がないからです。大きく歴史も長く、巧妙な搾取性をもつ団体は時間を経るなかで上層部が旨味を覚え、二次的に搾取者になる可能性はあるかもしれません。最初はいい人たちだったのに、というやつです。しかし、そういうことは目の当たりにした離脱者が社会に告白するしか、知る由もありません。その環境で長く過ごせば過ごすほど、良き人として振舞うことに慣れて息を吐くように無意識に搾取しているかもしれないのです。そういう人に「自分たちばかりが潤おうとしているのだろう」と問い詰めたところで自覚は難しいのです。

上層部の頂点はリーダーです。おそらく、ここにこそ”仕組まれ”の源があるはずです。では、それは自覚されているでしょうか?多分、自覚出来るのは一握りだと思います。よく搾取的宗教団体の教祖が「金目当て」だと揶揄されることがありますが、これは多分、あまり当たっていません。搾取的なリーダーが経済的欲求を優先させているとは限らないからです。特に宗教性の強い信念をもつ場合、金銭よりも宗教的な関心のほうが強いことがありますし、人を統制したい、支配したいという欲求が迫り出している場合もあります。どうせ金目でしょ?は思う側の価値観を投影しているだけで、相手に経済的な関心が強いとは限りませんし、金に興味があっても、それは自分が信者や社会を統べ治める支配欲の道具に過ぎないかもしれないのです。

ただ、リーダーという観点にも目を向けておく必要があるのは、多くの場合、搾取性の高い組織のリーダーは病理性が高いためです。病理性というのはイコール精神病という意味ではありません。パーソナリティの歪みの度合いがとりわけ高いという意味です。しかし、こういうパーソナリティはまずもって自覚が難しい(のが歪みの由縁)ものです。息を吐くように搾取してしまうのに、本人は善きことをしていると思えるのが特徴です。海外のカルト研究では、こうしたリーダーのパーソナリティを追求する人々もいます。そういう特殊な性質をもつ人が何らかの機会を得てリーダーになり、善きリーダーと理想化され、そこからの指令を絶対的なものとして受け入れる個人が二人、三人となり小集団を作り始めれば、良きことと信じて無自覚に他者を搾取することが理想視される環境は作れます。その搾取的行動が、個人が従来もっていた良心に反するものであっても、回心ゆえにそれを自分の弱さとして克服し、受け入れることが理想とされれば、そこに向かって突き進むのです。従属する個人にとっては外部社会からは搾取と見えることが良きことと変換され、回心によって永続スイッチが入り、自転し始めるのです。従来もっていた良心は上書きされ、やがて違和感がなくなり、子世代にはそれが最初から正しいものとして伝達されます。子世代は一定の発達段階までは素直に言われたことを吸収しますから、仕組まれた回心とは別の信念形成を経験することになります。


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