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専門家向け 親の思想信条に悩む子世代(“宗教二世”等)への支援(6)組織のダイナミズムと親世代のコミットメントの影響

これまで宗教二世(等)は親世代を通して組織の影響を受けていると説明してきました。今回は、組織の特異的な集団ダイナミズムに親世代がどうコミットメントするかが子世代に影響するというお話です。

第一世代、親世代から始まる人権侵害

ドグマ(教義・教え)を中心に据える組織では参加者に強い規範を求めることがあります。長く続く組織はその歴史のなかで安定・穏健化するのですが、歴史が短い新宗教や自己啓発セミナー、マルチ商法、スピリチュアル商法、反医療運動などでは急進的で先鋭化することがしばしばあります。白か黒かをはっきりさせる二元論的な考えが支配し、特定の狭く硬い考えを絶対化し、それに賛同・コミットメントしない人々を排除し、見下すなどします。

こういった組織に精神的に絡め取られると、まず第一世代である親自身が自分の人権を手放すことになります。”宗教二世”問題で「親は自分で勝手に信じたが、(子世代である)自分は押し付けられた」とよく言われるのですが、不健康な組織の場合、それは相対的なものに過ぎません。第一世代である親も十分な選択の自由を与えられた意思決定は出来ておらず、親世代から既に人権侵害は始まっているのです。

いわゆるマインドコントロール現象について

これはいわゆるマインドコントロールと呼ばれるものですが、そのありようにはおそらくグラデーションを伴うバリエーションがあります。例えば、最初から目的を告げずに勧誘する、組織を明らかにせず勧誘することは当然、大変不誠実で人権を脅かすやり方ですが、では目的や組織名を告げさえすれば問題ないかと言えば、そうではありません。第一、元々知られていない不誠実な組織があるとしたら、名乗ってもそれで警戒されるわけではありません。また、名乗っても実態がわからなければ警戒もされません。正体隠しの勧誘は統一教会が有名ですが、エホバの証人は名乗っています。彼らは正体隠しならぬ「実態隠し」のタイプです。また、オウム真理教は世間に知られていない頃は当然名乗っていました。知られるようになって、警戒を解くためにダミーサークル(カレー同好会、ヨガサークルなど)を用いるようになりましたが、操作性はそこだけではありません。他の組織にも通じることですが組織は変化するのです。伝統宗教、既成宗教がカルト化することがあるように、集団のダイナミズムは変質を遂げることがあります。オウムの場合は参加のハードルの低い末端信者から、教祖に近く自尊心をくすぐられると同時に組織の実態を知るゆえ教祖からの要求も呪縛も強く、それゆえに逃れられなくなった幹部たちもいました。組織内部で信者階層が作られ分断されており、層の間で操作がなされていたのです(ですから、末端信者は幹部が毒物を撒くなど当然、知りませんでした)。さらに、昨今では陰謀論のカルト性が指摘されます。これなどは基本的にインターネット情報を取りに行くことから始まりますから、当初は強制力は何もありません。しかし、その内容は不安を煽りつつ強烈な二元論に引き込み、やがて日常生活を支配するほどの影響力をもつようになります。

これらは洗脳のようなあからさまな強制力を伴わないことから、第一世代、親世代の時点でいつの間にか選択のイニシアティブを奪われ、気付くと従属的に判断するよう操作される現象です。当然、限りなく自覚はもてません。親の思考がカルト的になった場合、子世代はこの信念特性に影響されることになります。

第一世代、親世代の信念特性を通じて行われる子世代へのコントロール

例えば、エホバの証人やオウム真理教の場合、終末論を唱え、救済されるためには教えに従わなければならないと恐怖信仰を植え付けられました。死後、来世のことなど誰にもわかりませんから、第一世代である親世代が信じたからには従わざるを得ません。そこで自身も活動にコミットし、愛すべき子供にもそれを求めるようになります。ここからカルト的な信念特性による世代の連鎖が始まります。エホバの証人の場合、少なくとも過去には愛する子供を楽園に行かせるために適切な態度を取らない子供に鞭打つことを推奨しました。日々の伝道、集会活動に参加することを求められますし、学校生活も制約されます。オウム真理教では出家信者の場合、集団生活をし、衛生状態、栄養状態もよくない環境で過ごし、義務教育を受ける権利も奪われましたし、幼子にも修行を求めました。繰り返しますが、親世代はこれを虐待ではなく、愛するわが子のために良かれと思って行ったのです。ここが世間の価値観とかけ離れるところなのですが、人間の価値観は一度、合理性があるように錯覚させられ、変えられると、今度はそれが唯一の「正義」になり得るものなのです。これがいわゆる”回心”と呼ばれる現象で、そこに恣意性や結果としての人権剝奪が伴う場合に問題視されることになります。

第一世代、親世代は”回心”によってこのハードルを乗り越えると合理的な理由を得ますから、自身もそれまでは感じてきた違和感や苦しみ、葛藤を乗り越えて信念を優先させるようになります。第一世代、親世代自身も苦痛を取るに足らないものと考えるよう自分に仕向けて教えを優先させるようになりますし、子供が大事ならなおさら教えに従わせるよう教育します。親世代には”回心”による合理的理由が生じますが、子供にそれはありません。

子世代を発達的観点から捉える

では、子供はそれを最初から苦しみと捉えるでしょうか。発達理論を踏まえた専門家の皆さんはおわかりでしょうが、幼少期にそれを汲み取ることはほぼないでしょう。これは一般的な虐待家庭でも同様です。身体的、心理的暴力は苦痛なはずですが、幼子に比較検討したり、親世代を客観的に捉えて、その行動の良しあしを吟味する力はありません。幼子にとって、それは当たり前の日常に過ぎないのです。一般的虐待でも身体的なものは周囲の大人が把握しやすいですが、心理的なそれはより見抜きにくく、二世問題の多くを占める後者は当然、限りなく周囲からは見えません。あるいは、目に見える宗教的活動は信教の自由の名のもとに看過されやすく、他人が触れやすいものでもありません。

かくして、のちに成長した子世代が苦悩を訴えるようになる、これら親世代の信念特性を通した”しつけ”の問題性はリアルタイムの時期には見逃されて
いくのです。

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