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邪馬台国研究: ため池を調べてみた。

邪馬台国四国説で、「四国に牛馬はいない。」というのがあるのだが、四国だけが、昔から牛馬がいないのだ。
なぜかというと、四国は渇水になりやすく、ため池が多く、牛馬がため池の水を飲んだり、排せつをすると汚くなるので、最初から牛馬をいれないのだそうだ。

しかし、あれ? ため池って、何世紀からあるんじゃー!??って思って調べてみた。
ちょっとやばい。邪馬台国四国山上説、アウトかー!!???
例によって、とりあえずWikipediaだっつ!! →いつも安易www

「日本の弥生時代には存在したと言われる」 → おっし。ここまではOKだな。邪馬台国は弥生時代の終わりくらいだ。
ところがここからがやばくなるのだ・・・。

現存する日本最古のため池といわれている大阪府の狭山池仏教僧である奈良時代の行基」
え??? ちょっと待ったー!!
たしかに、行基菩薩(近鉄奈良駅に銅像があるぞ!)にしろ、空海にしろ、水不足回避のために、ため池を掘ったのだ。
しかし、行基は奈良時代、大仏のちょっと前だ。空海にいたっては、平安時代の頭だ。200年も300年もずっと後じゃん!! やばいーー!!!

「ため池は、稲作文化と深く結びついて築造され、日本の弥生時代には存在したと言われる[18]日本の場合、年間降水量は多いものの季節や地域によって違いがあるほか、急な地形と短い川により水はすぐに海へ流れ出てしまう。そのために水田の灌漑を目的として水を貯えておき必要な時に使えるよう、ため池が発達してきたとされる。

古代では古墳の築造とともに池溝の開穿などの大規模な土木事業が行われた。特に池の開穿は国家的事業として行われ、古代の農事振興に重要な役割を持っていたことが知られている。『日本書紀』には崇神朝に「狭山に池構を開」らせて依網池、刈坂池、反折池を、応神朝に韓人池を、垂仁朝には高石池、茅淳池、狭城池を、仁徳朝には茨田堤、栗隈大溝、和珥池、横野堤を、履中朝には磐余池などを造るなどの多くの築堤記事が載せられている。このほか『風土記』などでも摂津国の昆陽池、肥前国の土歯池、豊前国の三角(薦)池などの存在が記録されている。履中天皇は磐余市磯池に両枝船を浮かべて遊宴し、季節外れの桜を見つけたという記事も見られる。『古事記』では垂仁天皇の子、印色(いにしき)の入日子の命により血沼の池、日下の高津の池とともに作られたとされる。このように現在の大阪府や奈良県では4~6世紀頃からため池が作られ始めたとされる。

現存する日本最古のため池といわれている大阪府の狭山池
仏教僧である奈良時代の行基、平安時代の空海が、ため池の築造や補修を行ったという話が他の土木事業の話とともに各地に多く残されていることは知られている。その行基が関与し、現存する日本最古のため池といわれているのが大阪府大阪狭山市の狭山池である。何度か改修工事が行われて、灌漑用として現在も使われている。1988年の改修に伴う調査によって発掘された遺跡から、築堤は7世紀初頭には作られていたことが判明。断面の土層分布から、行基による8世紀前半の改修と762年の大改修、重源による1202年の改修、片桐且元の1608年の改修などの経緯を知ることができている。」


あ、「改修」とあるので、別に行基の前からため池はあったことになる。

じゃあ、四国も大丈夫か。

奈良もわりと昔は雨が降らない日があったので、ため池多かったよ。まあ、今じゃ、水道が整備されているから、いらんでありますが。農業用水あるしね。

というわけで、まあ、「弥生時代からある」とあるので、合格にしておこう。

ほんと、ちょっと油断するだけで、「その時代にはそんなものありません」になるのだった!! やばいやばい!!

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