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古代研究: 小麦はいつ日本で食べられてきた?

先日、そばの一番古いのを調べたのですが、小麦はいつからかってのを調べました。
まあ、世界では、古代エジプトから栽培されてます。ほら、古代エジプトの壁画とかに出てるし、古代パンを焼いて食べてますよね。

あ、これこれ。たぶん、穂が描かれているので、上のほうが麦だと思います。小麦か大麦かわからんですが。でもエジプトに最古の物語みたいなのが、あって、小麦の話はたしかありました。
下は、緑色だから、うーん、ほら、麻とか繊維質の植物なのかも? 穂ぽいのが小さいし、完全に成熟してからの収穫でなく、青いママだからなあ。
ただパピルスは、先っぽが扇みたいにきれいに開いているので、パピルスではないようです。なんだろう? やっぱり布にするような植物じゃないかなあ?

上記より引用


こういうときはWikiでもいいが、違うサイトもあるのだ。
だいたい日本には、XXX協会とかあるので、それを調べると、やっぱり似たのがありました。これです。

引用します。
(ページの上半分は、さっきご紹介した古代小麦、古代大麦の話がでているので、よければそちらもご覧ください。粉にするの、大変なんだよね。古代じゃあ。)

「古くから食べられてきためんや菓子
 日本では、弥生時代の中末期には小麦や大麦が畑でつくられていたことが分かっており、日本人は麦を何らかの形で食べていたと考えられます。4世紀の大和王権時代は、米とともに麦、粟、稗なども主食とし、8世紀には、朝廷が小麦や大麦の畑作を奨励しました。「麦」は万葉集にも登場します。
 「うどん」や「そうめん」は、もととなる料理は中国から伝来しました。時期は飛鳥時代と推定され、1,000年以上も前から日本人は「めん」と呼べるものを食べていたことになりますが、当時のめんは、今のものとはかなり違っていました。
 室町時代の「庭訓往来」には、齟鈍、索麵、棊子麵などの名前が出てきます。当時、これらは「点心」と呼ばれて僧侶の間食でしたが、茶の湯の普及とともに一般の人も食べるようになりました。その後、室町時代から安土桃山時代にかけて、日本の風土や人々の嗜好に合うよう変化し、日本独特のめん類へと発展しました。
 小麦粉菓子も歴史は古く、8世紀に遣唐使たちが仏教とともに中国から「唐菓子」を持ち帰りました。「まんじゅう」は鎌倉時代の初めに生まれました。「せんべい」は弘法大師が中国から持ち帰ったと伝えられますが、当時は米粉や葛を素材とし、小麦粉せんべいは江戸時代に始まりました。」


あ、そうだ。そうめんだ!! そうめんは小麦ですね。
そうめんみたいなのは、古代にも食べてましたよね!!
こちら。

「祇園祭で知られる京都の八坂神社は、明治元年に改称されるまで祇園社といった。その南北朝時代の記録である『祇園執行日記』の康永2年(2243)7月7日の条に、同じ食品(麺類)を指して索餅、索麺、素麺と三通りの記述があり、これが「そうめん」という言葉の文献上の初出とされている。

これら三つの表記のうち、「そうめん」と読むのは索麺と素麺の二つで、索餅は「さくべい」と読む。

索餅とは、奈良時代初期から食べられていたわが国最古の麺で、和名で麦縄とも書かれた。いまのところ、天武天皇の孫・長屋王の邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が、もっとも古い記録である。もともと索餅は古代中国の後漢(25~220)や唐(618~907)の文献にたびたび出てくる言葉で、日本へは唐代に伝えられたとされている。

ただし、索餅がどんな麺だったのか、いまだに定説はない。材料・分量、道具については平安時代中期の『延喜式』に書かれており、小麦粉と米粉に塩を加えて作る麺(米粉は混ぜないという説もある)ということは分かっているが、太さや長さ、手延べか切り麺かといった詳細は不明である。

「では、索麺をなぜソウメンと読んだのかだが、ソウメンは旧仮名遣いではサウメンと書くことから、サクメンが転じてサウメンになったという説や、当時の中国語の発音のソウミエンが説ったという説などがある。素麺という表記については、禅院で精進(素菜)として食べたことからの当て字ともいわれる。」


奈良時代、平安時代のお菓子は、こちら。
唐菓子って呼ばれていました。こっちに、いろいろありますね。
(唐菓子じゃないのもあるかも?)


けっこう、おいしそうですwww
でも、昔から、炭水化物まみれっぽいなあ・・・。おやつが、炭水化物が多いのは、いまどきはいかんなあwww デブ一直線www

そういえば、「古事記」で保食神を殺したら、いっぱい有益な穀物、野菜、牛馬がでてきたとありますね。
ここに一応、「麦」がでています。


「天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。その種は秋に実り、この「秋」は『日本書紀』に記された最初の季節である。また大神は蚕の繭を口に含んで糸をひき、これが養蚕の始まりとなった。牛馬については特に説明されていない。」

これこれ。アジア一般に普及している神話の類型です。

お、こんなのがあった。
「佐原真は、考古学の観点・立場からは縄文中期の土偶破壊儀礼に当たる考古資料が弥生時代や古墳時代には確認されないことから、日本神話(高天原神話)が縄文時代までさかのぼるという考え方には不安が残るとし、神話の連続性(民俗伝承・文化を考古資料で裏付けようとする時間軸を無視した説)に関しては問題点を呈している(森先一貴 近江俊秀 『境界の日本史 地域性の違いはどう生まれたか』 朝日新聞出版 2019年 p.16)。」

だって、伊弉諾伊邪那美は、紀元前180年くらい、がんばっても紀元前200年までしか、遡れないからね。
鋭い! この先生!!!


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