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プレ皇室研究: 鹿児島県にも立派な考古学者がいる。端陵古墳と中陵古墳

端陵古墳(コノハナサクヤヒメの墓と比定)と中陵(海幸彦の墓と比定)を追加で調べていたら、やはり「古墳時代やんかー」という情報にでくわしました。
ちゃんと事実は事実として報告する、立派な学者さんがいるものです。
リンクして、一部を引用します。


「古墳造営に自然地形を活かしたとする端陵古墳と中陵古墳を,4世紀前半に位置づけるとの考え方もあるが,主体部に石棺が安置されると伝えられことから,築造年代は下ると考えたい

ねー。どうみたって、1世紀くらいの人物に、なんと300年も400年も後の時代の墓をあてているのだ。
なんだ、これって思いますよね。

https://www.jomon-no-mori.jp/old/sensikodai/02.pdf

Wikiにはこうあります。
「神亀山の首部分に鎮座。祭神の御陵と伝わる。
この火闌降命の御陵と伝わる中陵古墳は、本格的な測量は実施されていないが、1986年に川内市歴史資料館により端陵古墳と共に現地踏査が行なわれ、こちらからも墳裾が確認されており、略測で直径約22mの円墳の可能性があるとされている。
文化3年(1806年)にここにあった古い松の木が枯れて、土地の人が切り除き根を掘りとった際、石榔に掘り当たりその中にあった石棺の蓋石を引き開いたところ、中から白煙が吹き出しその石棺の内部は青味がかった赤色であったという逸話が残っている。
川合陵神社(かわあいのみささぎじんじゃ)
祭神:天火明命(邇邇杵尊の兄弟神、もしくは皇子神)

神亀山ではなく五代町の冠山の麓に鎮座。御陵殿(みささぎどん)とも称された。
はじめ社は、冠山の山上にあったといわれているが、その後陵が崩れたため冠山の麓に移したとされる。
社殿のすぐ西側に祭神の墳墓と伝わるチョッポ岡という小丘がある。」



なんと、地元の人の面白いネタがあったぞ!!
チョッポ岡って、「フクロウ」のことで、この周辺は熊襲が住んでいたそうなのです。
熊襲は、おおー、縄文人の大豪族です。
なんだ、ほら、やっぱり南九州は渡来人と関係なく、熊襲縄文人の土地だったのだ。
いや、もしかしたら、負けた熊襲一族が官僚とかになって、古代の負けのうさをはらして、自分の先祖を天皇陵に押したのかもしれんぞ!!
わー、ロマンやわあーーーー。素敵ーーー!! ええね、ええね!!
ドラマチックじゃん!! ドラマにできるでwww

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12725308342.html


鹿児島県には、鹿児島県の別の良さがあるんだから、こういうインチキなもので客よせするなってことです。いや、客寄せしてもいいけど、インチキ情報で出したらいかんって。
普通の「地元の豪族の墓です」でいいやんか。皇室じゃなくても、普通の歴史ある古代の豪族っていうだけで、立派なんです。
よそから来た人より、ずーっと日本にいた縄文人の豪族は、もっと古くてすごいんです。
(いや、この墓は新しいけどさ。)

たぶん、小山にするようなのってわりと新しくて、ずっとずっと前の縄文人の豪族は単なる平地にそのまま埋められていただけじゃないかな。
だから、熊襲の王様が紀元前にいても、ただの土の中で腐ってしまったんだよ。それに縄文時代には、青銅器とかもないからね。出てきても勾玉くらいしかないよ。
あとは、ドルメンみたいに石を並べるだけかなー。


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