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プレ皇室研究: 伊弉諾、伊邪那美は何を仕事にしていたのか?

天照大神の時代になると、田んぼの記述がでてくるので、メインはなんだか稲作農耕のようです。
しかし、伊弉諾、伊邪那美夫婦ってあまり稲作してないんですよね。そういう記述がなく、沼島から、淡路島、四国、瀬戸内海、山陰地方をふらふらしている。
最初、「ああ、移民してきたばっかりで土地勘がないから、定住地を探していたんだろうなあ」と思ったのですが、どうも違うようです。

なぜかというと、伊弉諾は船の操舵が上手で、剣も持っています。つまり、誰かと戦うときが多かったのかなと思います。矛も持っています。これも武器です。まだ鏡はもっていません。

それで唐突に、山陰地方で伊邪那美は死んでしまいます。比婆山ですが、鳥取県の奥地の山です。県境あたりです。

そして、次は九州の小戸に伊弉諾は行きます。そこで禊をします。

これ、古代マニアの人なら知っていると思うのですが、山陰地方も朝鮮半島に近くて、日韓貿易をしていたのです。特に弥生時代は、青銅や鉄などの道具が増えており(祭器、武器、農具とも)、鉄の中間製品の輸入が多かったのです。
(これを「鉄の道」というそうです。)

こんなかんじです。上記より引用。時代もぴったりで紀元前2世紀なので、私が考える伊弉諾と同じ時代です。



しかも、伊弉諾は「小戸」に禊にいっていますが、これは偶然ではなくて、朝鮮半島から来たときに、対馬経由で、この博多湾周辺の地理は、それなりに知っていたのです。
おそらく、伊邪那美が死んだというより、離婚で3人の子供を押し付けられてしまったので、「こりゃあ、ふらふらしているより、ある程度地の利のある土地に子供が大きくなるまで定住するか。港があるから、貿易もできるしな。近くには平野があって田んぼくらい作れるだろう」とまあ、思ったのじゃないかなと思います。
汚いものから逃げたというより、「嫁さんに逃げられたから、心機一転、シングルファーザーでがんばるぜ」という意味ではなかったのかなと思います。
(でも嫁に逃げられたので、なんか腹立つから、嫁の悪口として、「死んで蛆虫だらけだった」と公言してしまうのです。嘘でも。)


伊弉諾は、出戻り縄文人なのですが、もともと朝鮮半島に親族たちと住んでいたところ、何らかの理由(たぶん、中国の国の問題で、社会的に乱れたり、移民が増えた)で、「なんかうざいから、倭国の本土に帰ろうぜ」と思って、若夫婦で日本に帰って来たのです。
でも、どっちかというと、鉄の半製品の輸入貿易とかがメインの仕事で、たまに漁師や畑をする程度ではないかなと思われます。だから、鉄の道である山陰地方のことは訪れたことがあって、生活範囲だったのです。

あるいは、ただの船頭的な仕事で、とりあえず子供たちを食べさせていたのかなと思います。
(なんと、九州北部では中国の貨幣が出土していて、伊弉諾の暫く後でしたら、貨幣も流通していたのです。)

幸いなことに、朝鮮半島にいた親族や取引仲間などが、「えー、俺たちも温かい倭人の国で住みたい」と思って、ぽちぽちと帰国、あるいは移民してきたので、村で固まって住めば、誰かが子供の面倒をみてくれます。

なにしろ時代的に、鉄半製品がどんどこ輸入されるので、仲間から回してもらって、瀬戸内海や山陰地方にあちこち船で運んでいたのかなと思います。半分商人ってかんじです。いや、物流業なのかもしれないです。ミニミニ日本郵船みたいなかんじ?

それでまあ、広い土地の領主でもないし、なんだか稼ぎが悪いときはただの船頭っぽいし、商人にしてはそれほど大規模ではない零細商社のおっさんってかんじなので、「古事記」も恥ずかしくて書かなかったのでしょう。

ですので、博多湾の小戸近くで10年以上住んでいたのですが、博多湾=高天原 と断定されると、「天孫」イメージがなくなるので、伊弉諾の仕事については、何も書かなかったです。
まあ、宮殿があるわけでもないので、話を飛ばしても問題はありません。舟は2,3隻もっていたかもしれません。少年のスサノオに、船の手伝いをさせたかもしれません。だから、スサノオは海の世界をまかせたことになっているし、スサノオは新羅にいったりしていますので、船の操舵はできたのでしょう。

そして、子どもたちが大きくなると、やっと淡路島に家を建てて、そこで亡くなります。
妻とは離婚していたので、比婆山に自分の墓を作りたくはなく、ただ、ちょっと新婚時代の沼島に近くて、田畑を作れる淡路島を最期の地に選んだのでしょう。

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