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プレ皇室研究: 明治政府を騙した男 田中頼庸

前に、どうみても南九州には、日向三代の時代の古墳とかはないという話をしまして、Wikiにあります、御陵が決められた経緯を引用しました。

「神代三山陵を考証した学者は多く、例えば古くは薩摩藩の国学者の白尾国柱(しらおくにばしら)が、寛政4年(1792年)に『神代山陵考』を著し、神代三山陵がすべて薩摩藩に存在することを主張しました。
行政機関の筆頭の神祇事務局に命じられて、三雲藤一郎と三島通庸が明治2年(1876年)10月に出した結果は次のとおりです。
・ 可愛山陵(瓊瓊杵尊)= 新田神社のある八幡山(現・薩摩川内市)
・ 高屋山上陵(彦火火出見尊)= 内之浦の北方村国見岳(現・肝付町)
・ 吾平山上陵(鸕鷀草葺不合尊)= 上名村鵜戸の窟(現・鹿屋市)

明治5年6月に明治天皇が鹿児島に巡幸された際には、鶴丸城から皇祖の眠る薩摩川内市の可愛山陵、内之浦の高屋山上陵(国見権現)、鹿屋市の吾平山上陵の三山陵を遙拝されました。
ところが、明治7年(1881年)の神代三山陵治定の裁可では、高屋山上陵は姶良郡溝辺村神割岡に変更され、確定したのです。この変更の背景には、当時神社奉行として辣腕を奮っていた田中頼庸(よりつね)の建白が容れられたためと伝わっています。」」

こうやってみると有能そうなのですが・・・。

「大山綱良を叔父に持つ薩摩藩の一家に生まれる。幼年の頃に薩摩藩士となり、鹿児島城で重野安繹、今藤新左衛門らと共に文学の秀才と名付けられた。後に高崎正風の従兄弟である高崎五六と親交を持った事で、正風は頼庸の父である綱良が属した若手の薩摩藩の組である「誠忠組」に入ったが、頼庸は辞退する。

その後、島津久光が執行した文久の改革により活動の場を京都に移し、儒学や医学等を学んだ。後に国学を専攻し、1867年(慶応3年)に薩摩に戻った。維新後の1871年(明治4年)に神祇省に入省し、教部大録や伊勢神宮の禰宜となった。

さらにその後、大教正や神道事務局の副管長も務める。

1882年(明治15年)には管長に昇格した事により独立し、禰宜を辞職する。同時期に常世長胤や出雲派の千家尊福を批判する等、一躍有名となった。墓所は青山霊園(1ロ17-14)」

まあ、この人が福岡県のお墓を無視して、自分のところの鹿児島県の誰かわからん人の墓をプレ皇室の墓に認めさせてしまいましたので、原田大六先生は発掘ができたわけです(苦笑)。



決定の明治7年のころはこんな状態。うーん、出世しているんだろうなあ。


「明治5年(1872) 教部省の設置に伴い、教部大録となる[近代の神宮]。
明治6年(1873) 3月10日、権少教正となる[日本型]。
明治7年(1874) 1月13日、権中教正しいとなる[日本型]。5月、神祇官再興の建白書を提出[形成過程]。8月19日、権大教正となる。[日本型]。伊勢神宮の大宮司となる[神道観]。」


まあ、もっと勉強しないとわかりませんわ。

でもなんか、貧困だったみたいだから、大人になってから、権力欲とか、我欲が出すぎたのかもしれないです。

うーん、やっぱり子供時代は、ある程度素直に豊かなほうが、脳の育成は正しいんじゃないかなあ。

追記
この本に、詳細が書いてありました。
すごいので、ぜひ読まれるとよいです。



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