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プレ皇室研究: 南九州に陵墓が決まった理由

なーんだ、こういうマニアな人の話によると、やっぱりお役人で、権力をふりかざすおっさんがいたからじゃん。
ぜんぜん、科学的でなかったね。
宮内庁、もう21世紀なんだから、そろそろ見直ししろよって思った。

「明治5年(1879年)までは、宮内庁は高屋山上陵は国見岳にあるとしていましたが、それが霧島市溝辺町になった経緯を、窪壮一郎著『明治維新と神代三山陵』(法臧館)により以下に説明します。
神代三山陵は、日本神話に登場する神々である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでのみこと)、鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の陵墓の総称です。

神代三山陵を考証した学者は多く、例えば古くは薩摩藩の国学者の白尾国柱(しらおくにばしら)が、寛政4年(1792年)に『神代山陵考』を著し、神代三山陵がすべて薩摩藩に存在することを主張しました。
行政機関の筆頭の神祇事務局に命じられて、三雲藤一郎と三島通庸が明治2年(1876年)10月に出した結果は次のとおりです。
・ 可愛山陵(瓊瓊杵尊)= 新田神社のある八幡山(現・薩摩川内市)
・ 高屋山上陵(彦火火出見尊)= 内之浦の北方村国見岳(現・肝付町)
・ 吾平山上陵(鸕鷀草葺不合尊)= 上名村鵜戸の窟(現・鹿屋市)

明治5年6月に明治天皇が鹿児島に巡幸された際には、鶴丸城から皇祖の眠る薩摩川内市の可愛山陵、内之浦の高屋山上陵(国見権現)、鹿屋市の吾平山上陵の三山陵を遙拝されました。
ところが、明治7年(1881年)の神代三山陵治定の裁可では、高屋山上陵は姶良郡溝辺村神割岡に変更され、確定したのです。この変更の背景には、当時神社奉行として辣腕を奮っていた田中頼庸(よりつね)の建白が容れられたためと伝わっています。」

ねー、役人あるあるだよねー!!

なんていうか、科学的志向の人にもっと頼めよ。
まさに、我田引水であります。



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