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平明

バス、好きだなぁ。

鬱屈した自分から突然平明な言葉が出てきて驚く。
最近読書という入力活動をしていなかったので文章が上手く書けないだろうとnoteを書く出力活動もつい避けていた。
読書と違って俳句はたくさん書いた夏だった。平明に単純に俳句を書くということをずっと考えていたのに、文章ではその気持ちをすっかり忘れていた。なので上手く書けなくてもnoteを久しぶり書いてみようと思う(昨日たまたま弘中綾香のエッセイを読んでもっと気軽に文章を書きたいなと思ったのがきっかけでもありますが...)。

ということでバス、好きだ。

車がないと不便な町で暮らした夏、たまーに地元にバスで帰った。
車だと一時間、バスだと二時間。バスは長距離運行なのにわりと頻繁に停車する。私は始発から終点までみたいな利用の仕方だが、そうではない人たちもいて、そういう人たちの暮らしが垣間見える。ここに暮らしている人いたちの生活が見えてくる。

たまーに地元に帰る、これが多忙な仕事の癒しになっていたわけではない。二時間、本も読まずタブレットも触らず、音楽を聴くか妄想するか眠くなったら寝るか、そういう時間を過ごす。これがかなり気分転換になる夏だった。三種類の趣味を持て、とは私がなんらかの自己啓発で知った言葉だが、この意味がすごくよく分かる。旅行とかアクティビティのような、「移動」がある趣味はリフレッシュになるらしい(ちなみに残りの二種類は「入力行動」と「出力行動」で、わたしの場合「入力行動」は読書や映画鑑賞、「出力行動」は俳句や手芸などで事足りている)。
旅をするように働いている時点で「移動」みたいなものだから、わたしに「移動」はいらないと思っていたけど、この二時間はわたしにとってかなりの幸福。
つい眠ってしまったら最後、気づいたらバスはよく知っている町に到着していて、でも地元に対してなんだかもうよそ者に感じる自分もいて、日常的と非日常の遠近感にめまいがする。

そんな夏(七〜九月)を過ごしていたわたしは二週間前から、寒い湖のそばでまた新しい旅を始めた。

ばかにすんな、と大きな声で叫びたい毎日で、どこにも帰る場所がなくて、いや本当は帰る場所は(逃げる場所も)あるんだけど帰りたくなくて、わたしをばかにしない、わたしを好きだと言ってくれる人たちの顔を思い浮かべて、もうちょっとやってみよう、やるしかないと自分を鼓舞している。

それで今日久しぶりにバスに乗った。
バスは湖沿いを少しだけ走って、海沿いを一瞬走った(これを書いていたので見ていなかった)。そして目的の町にたどり着いた。生活している人たちの息づかいが感じられる。安心する。

やはりわたしの生活に「移動」は不可欠だ。

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