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バプテスト連盟への違和感|教会やめたい理由

ああ、あれもあって「教会やめたい」と思うようになってきたんだよな、ということをメモがわりに書き溜めてるうちに、編集中の記事がいくつもたまってしまったw
そのうちの一つを今回最後まで書きます。

今回かなり思想が強いです。
ここまで「バプテスト主義の教会」という、多少ぼかした言い方をしてましたが、はっきり言ってしまうと、今いるのは日本バプテスト連盟(バプ連)の教会です。
(はっきりさせないと、バプ連以外のバプテスト主義の教会に迷惑をかける内容に今回はなると思うので)

各個教会主義とやらに憧れすぎた

で、出身教会を離れてバプ連の教会に移籍することを決めた理由の一つが、バプ連は「各個教会主義を大切にする」を謳ってることでした。
出身教会は教団の力が強く、「これは教団の方針」というところがあったんです。平時(方針とやらに異議がない時)はいいとして、何かあるとケンカの相手が教団ということになる。
でも各個教会主義だというなら、手の届く範囲でのケンカになる。

ケンカというと言葉が悪いですが。

たとえば何か意見を集約しなきゃいけないというときに、各個教会主義だというなら、教会内での話し合いがある。
その話し合いで、別に私の意見が通らなくてもいいんですよ。話し合いに参加して、意見を言わせてもらって(聞いてもらって)、その上で教会の総意として別の意見となるというのは、不思議と不満はないんです。

それが出身教会では、教会の中で何を言っても「上(教団)の考えとして」が強い。話し合いに参加するどころかこちらの声がまったく届かない、教団という上部組織。一応、教会の代表として地区総会に出席して、そこから教団に声を届けるという道がないわけじゃないけど、その場合でも「私の意見」じゃなくて「教会の意見」「地区の意見」として発言しなきゃいけないのだろうと思うとね。

その点、今私がいる教会は、バプ連の中でも特に、教会内での話し合いを大切にしているところであるようでした。年に一回の教会総会だけでなく、毎月話し合いの機会がある。
たとえばバプ連が何か声明を発信するというときも、事前に教会に文面が来てそれを教会内で話し合って賛否や意見をバプ連に打ち返す。
教団ありきの教会でずっと育ってきた私には、これらはすごいことでした。

ところがやっぱり、バプ連の教会も「教団ありき」なところが多々あるわけです。正しくは「バプテスト連盟は教団ではない」そうですが、連盟という上部組織ありきという。
…などというと「連盟は教会の上部組織でもない」と言われるはずなのだけど、実質的に上部組織だよねという話です。
まあ、ある程度はそういうこともあるだろう、まったくないわけはないだろう、とは思っていたのだけど、各個教会主義へのあこがれはどうやら隣の芝生が青く見えていただけらしい、と感じることが多々でてきました。

ややこしいのは、各個教会主義が否定されたり軽んじられたりというのではないという点。各個教会主義は生きている上で「これについては私たちの教会も連盟に従いましょう。今までそれでやってきたし」という。
言い換えると、組織形態としては各個教会主義であって連盟は上位組織の教団ではない。でも空気としては「連盟の下(もと)にある各教会」という構造が強い。

要するに、

タテマエが強い

ということなのだと思う。今気づいたのだけど。

タテマエとして各個教会主義を尊重とか。
(教会の方針として主体的に「連盟の方針に従う」を選んでいるだけ)

タテマエとして「教会学校は全年代が対象」とか
(実態としては、大人のクラスありきでカリキュラムがつくられと子供のクラスがまったく別。でも「教会学校として」で動こうとする。これは特に違和感が強いところなのでまたあらためて書くつもり)

「各個教会主義だというからここを選んだのに」と言っても
「各個教会主義ですが何か?」にしかならない部分がある。

具体的なところを挙げるとですね。

特に違和感を感じたこと

教会契約

教団が教会を始めるのではなく、信徒が契約して教会をやっていくというバプテスト主義にとって、教会契約というのはとても大切なものだそうで、教会によっては教会員が署名して契約することもあるのだとか。

ところがバプ連では、教会契約を制定している教会というのはあまりないのだそう。じゃあどうやってるかというと、バプ連の讃美歌集(新生讃美歌)に収録されている「教会の約束<参考用>」を、私の教会では主の晩餐式(聖餐式)のときに唱和するんです。
そもそも<参考用>とあるとおり、これを参考に各教会で制定すべきものなのに、英文から翻訳されたお仕着せの教会契約を議論もなく採用し続けているって、バプテストにとって教会契約ってなんだったの?と。

でも「私たちの教会の約束を制定するべきでは」と言っても、「連盟の教会の約束があるのだからいいじゃないか」と議論にならない。
しかもその内容が、私に言わせればかなりなファリサイックで。これを主の晩餐式のたびに唱和させられるのだけど、内容的に私にとっては苦痛でしかないんです。
主の晩餐に与るのに「この契約文に賛成するのが条件」となっているように感じるのもしんどい。
各個教会主義とは?バプテストとは?てなる。

使徒信条

前回書いたようにバプ連では使徒信条を否定している教会が多いです。
私の教会では使徒信条を否定はしていないけれど、でも「バプ連では使徒信条は使わないのよ」と言われてしまう。「否定しないけどみんなが使わないから、空気を読んでうちの教会も使わない」って、否定するよりひでえと思ってしまうのだけど。各個教会主義どこ行った?
これだったら、はっきり「教団としてこうなので」のほうがまだマシと思ってしまいます。

主義主張ありきが強すぎる

バプ連が社会問題への取り組みに熱心というのは聞いていましたが。
出身教会の先輩から「君がバプ連勢力もに行って大丈夫か?」と冗談を言われたほど、ここはぼくには左すぎるところでした。

たとえばですね。バプ連の総会の議案書にこういうことが書いてあるんですよ。

(前略)
 2021年に起こったミャンマーでの軍事クーデターによる民族抑圧、また2022年に起こったウクライナ信仰といった軍事的衝突の背後に、いのちの軽視と差別、人権の蹂躙、そしてそうしたことを是としていく支配の構造など、様々な課題があることが明確になっている。
(中略)
 こうした様々な課題の根底に天皇制・靖国神社問題があるとの問題意識から、私たちは2023年度もあらゆる形で活動をつけていく。(後略)

日本バプテスト連盟「第68回連盟定期総会」資料より

はあああ?

ミャンマー人もウクライナ人もロシア人も、絶対に「ニッポンの天皇制・靖国神社問題とは関係ありません」て言うと思う。
むしろ失礼。ミャンマーで軍事政権と戦っている人たち、ウクライナで文字通り命を賭けて侵略者と戦ってる人たち、そして自分たちは正しいと思って戦っているのだろうロシア人たちに「あなたたちの戦いの根底には日本の天皇制と靖国神社の問題が」て、こんなバカにした話あるのかなって。
反戦平和への取り組みは大事だと思うけど、反日に聖書を利用してるだけに思えてしまってそれはぼくとは違う宗教だなと。

ウクライナ戦争といえば、2022年の受難日にバプ連理事会がこんな声明を出してるのだけど。

(前略)
 一方ウクライナ政府も、愛国心を鼓舞し、国民の避難を制限して、戦闘に加わるよう求めています。そのウクライナ政府の支援要請に応える形で、西側諸国の多くがロシアへの経済制裁を打ち出し、武器供与までして、戦争を後押ししています。
(中略)
 しかし、全ての戦争が悪です。憎悪を伴い、人間のいのちを大義や国家の犠牲にします。いつの時代も、力ある者が始め、弱い者たちが犠牲になります。兵士たちも、人間性と尊厳を深く傷つけられ、歪められ、いのちを奪われていきます。正しい戦争など、ありません。(以下略)

日本バプテスト連盟理事会声明「今、平和の主イエスに従おう」より引用

なんか「ウクライナ人は抵抗や反撃せず黙って殺されてろ」と言ってるとしか思えませんでした。

ここまでくると、同類と思われたくない。
「彼らが信じているとする神」と、「私が信じている神」が同じ神だとは思えない(これをいうと、私の中では彼らはすでに「使徒信条を否定する宗教の人たち」なのだけど)

いや、バプ連としてはこう言わざるを得ないのだろうというのは、お察ししますよ。
なにしろ2002年の連盟定期総会で次のような宣言を採択してますから。

(前略)極限状況は暴力とその正当化へと私たちを誘惑する。しかしたとえそれが愛する者を守るための暴力であっても、その暴力行為によって私たちは主イエスの十字架の下で審かれる。(後略)

日本バプテスト連盟「平和に関する信仰的宣言」改訂版より

こんなのもう、怖くて自分の子は連盟主催の子供向け行事とか参加させられないです。

私が過去にいた教会では、子供を預かる行事の最大の使命は子供を安全に各ご家庭にお返しすることでした。目的は子供たちにイエス様を伝えることだけど、教会を信頼して子供たちを預けてくれた各ご家庭を絶対に裏切らないというのが大前提。
だからもし、何か事件が起きるようなことがあれば、私は何をしてでもお預かりした子供たちの安全を守らなきゃなんです。

でもバプ連は「愛する者を守るためでも暴力はダメ」なんですよ。たとえば付属池田小事件みたいなことがあった場合に、子供たちを守ってくれると思えないですよね。「やめてください」など説得するくらいで、手を出して制しようとはしないでしょう。自分やらずに警察呼んで制してもらうなんてこともしないかもしれない。
ちなみに付属池田小事件は2001年で、その翌2002年にバプ連は「愛する者を守るための暴力であっても」と総会決議してるんです。
全国の幼稚園や小学校が「不審者が乱入したら」を考えることから逃げられなくなってサスマタの設置とか進めた時期に、バプ連は「守る暴力も不可」と。

「愛する者を守るための暴力」も否定するというドグマを打ち出した以上は、戦禍の中のウクライナ人に向かっても「防衛戦だろうとすべての戦争は悪。侵略される側でも戦うのは悪。悪!悪!悪!」て言わざるをえないのでしょう。

こわいよ。

ちなみに、ミャンマー問題やウクライナ戦争も含めて、根底には天皇制・靖国神社問題がある、という主張を含む総会議案は可決承認されてました。
私の教会では、個別の議案への賛否を話し合う場で私の意見として「この議案は絶対反対である。人の主義主張に神の言葉である聖書を引用し、人に神を従わせている」ということは発言させてもらったし、私の手の届くところでこういう話し合いをできたことをもってよしとしました。つまり「バプ連の教会」だからということでこの件で教会をやめるかどうかということは考えません。
が、バプ連についてはもう、なあ、と。

あと「人に聖書を従わせるのではなく、聖書に人が従うもの」と言ってるあたり私はやっぱり福音派なのだなあと(自分ではそれが当たり前だと思ってたのが、少なくともバプテストではどうやら当たり前じゃないらしいぞって)。
ただ、別に私は今のこの教会を福音派にしたいわけじゃないんですよ。
それはいくらなんでもおこがましい、というのもありますが。以前には教会学校奉仕をとおして、私が子供の頃から叩き込まれたすばらしい(と私が思っているもの)をこの子たちに伝えよう、みたいなことは思ってたんだけど。そこでも「熱くなってるの、俺だけ?」が強くなってきて。
それよりも今は、私は私の信仰を守ることに、なけなしのエネルギーを集中したほうがいいんじゃないかと。

読まれたら身バレやばいなと思ってたけど、なんかばれてもいいやと思い始めてるあたり「どうせやめる」前提での最後っ屁みたいなこと書いてますね私はw

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