『うつを乗り越える』
2020年5月14日にこの文章を書きました。
一度は公開しました。
しかし、やっぱりうつ病になっていた自分を知られることが嫌だと感じ、記事を見られないようにしました。
ただ、今後生きていく上で、この期間は今生きる上でも重要な期間であったこと。
うつ病でも指導者としてまた現場に立つチャンスがあること。つまりは再び人生の一歩を踏み出せること。
そんな想いが誰かに届いてくれればと思い、当時から題名を変えましたが、再び投稿しました。
そして、この文章を当時提案、構成して頂いた、Son Sungi さんへ改めて感謝申し上げます。
ーー以下、当時の文ーー
「実は僕うつ病だった事があって」
これを言うと大抵の人が顔を曇らせる。ネット上には「うつ病は心の風邪だ。誰にでもなる可能性がある」という文書が散見される。実際にはそこまで身近に感じれるほどの病気ではない。
小さな悩みやストレスが積み重なり、医師に「うつ病です」と言われるまで本当に気が付かなかった。
そして、その時にはもう手遅れだった。
診断されるまではというと、「少し気分が悪い」「だるいな」と、風邪を引いたくらいの感覚でしかなくて、ストレスだと言っても、僕が仕事をしているフットボールの指導者業界では、常にストレスとの戦いだという認識のうえで仕事をしていたので、まさか自分がそうなるとは思ってもいなかった。
こうして今、状態がだいぶ良くなり、客観的にうつ病を振り返っている。物事の捉え方が少しでも歪んだだけで、それが蓄積され異常を生んでしまうという事に気が付いた。
見えない敵。
診断されてもこれという確定的なものが目に見えない。実際になった時、「へぇー、そうか」と、何処か他人事だった。
同時に「恥ずかしさ」というものもあった。僕は心が弱いのだ、自分は負けたのだという自己嫌悪に陥り、すごく惨めな思いになった。
もちろん、それまでにも悩みはあった。
その悩みを人に話してしまうとその時点で僕の事を弱い人だと悟られるのではないかという思いから人には相談できずにいた。うつ病の典型的なケースとして、「人に言いにくい」という現象が後を狂わす原因となる。
事が狂うと病院に行く意欲さえ奪われてしまう。そのタイミングは必ずあるのに、そのタイミングを逃す。僕はそうして奈落へと落ちていった。
僕の場合、うつ病の原因が3つ挙げられる。ストレス、家族の病気、経済的問題。この3つだ。
ストレスを溜めた一番の原因は上司とのコミュニケーション不足で、分からない事があったり、知りたい事があった時に、素直に上司に聞く事が出来ず、分かったふりをしてごまかしてしまう事があった。
自分の考えや意見を伝える事も足りていなかった。
フットボールの指導者として試合結果に対しての捉え方が食い違い、強い葛藤と劣等感に苛まされた。ただし、目の前にいるのは選手だ。少しでも不安な表情などを悟られると、最高のパフォーマンスに繋がらない為、どうにかこうにか指導者という役を演じてやり過ごしていた。
移動で使う地下鉄では先頭に並ぶ度に、よくないことを考えてしまっていた。
同時に悩みを抱えてよく起きた問題は、睡眠不足だ。これは本当に巻き返すのが困難で、一度負のサイクルにはまったら抜け出すのは本当に難しかった。睡眠が大事と選手に促しながら、当の本人は睡眠不足により、日中の集中力不足に陥り、現場でのパフォーマンスの低下という歯車の崩れは気が付けば自分では元に戻せなかった。
それと同時に、実家に暮らす母が倒れ、昏睡状態に2週間陥ったことは、過ごしていた日常に大きな影響があった。その時の自分の状況が思い出せないくらい混乱していた。今は回復し、治療を続けながら、僕自身も実家に住んでいるため何かあったらすぐに対応が出来るが、当時250キロも離れた場所に住んでいる22歳の一人暮らしには中々耐え難い出来事だった。
そしてより一層うつ病の深みにはめた最後の原因が経済的な問題だ。フットボールの指導者は、待遇が良いというのは一握りなのも現実で、特に街クラブで指導者のみでやっていくには相当な歯の食いしばりが、僕の場合必要だった。
しかし、その全てが不満だったという訳ではなく、生活が出来ればそれで有難いとすら感じていた。だが、現実的には色々な事が重なり、資金不足になり、より精神的に追い込まれる事になった。経済的管理が出来ないうちは一人暮らしをするものではないその時に実感した。
これら3つが重なった時は本当に肉体的にも精神的にも疲弊し切っていて、ほぼ何も食べる事も出来ず、ただただベッドの上で横になり時間だけが過ぎてい行った。
そのうち生きる気力は尽きてきて、最終的に出した答えは「消えてしまいたい」だった。
この頃は正直記憶が切れている部分もある。首にベルトを巻いた事もあった。ただその時は本当に奇跡的で、父親か誰かがたまたま家に来て最悪の事態は免れた。
後になって気が付くのだが、ここまで落ちるとすべての思考は停止して、ほとんど判断能力は欠損していたと思う。体の中に別の人物がいて、コントロールされているような感覚だった。
人格は“ほぼ”無かった。
そこから幾日か経ち、当時の上司に連れられて病院に行った。そのまま入院となった。2か月入院するのだが、鍵をかけられる病棟だ。内部の当時の様子は差し控えるが、非常に非現実的な時間だった。そこではずっとベッドにこもり、ひたすら時が過ぎるのを待っていた。
医師や看護師と言葉を交わす過程で、真っ暗だった視界に、少しずつ…少しずつ。色が戻った感覚があった。
やはり、「誰かと話すこと」が大切だった。
自分の考えや意思を言葉にする事で、何かを思い出すきっかけになる。その時は様々な人への感謝が思い浮かんだ。本を読めるようになってからは本をたくさん読んだり、詩を書いてみたりと、少しずつ自己表現をするようにもなった。
自分とは何者なんだと、深く考えるようになり、そこで「思考」ついて考えるようになった。
人間は思考ができる貴重な存在だ。
外部との通信はほとんど遮断されていたが、人生は一度きりだと思うようになり、次第に自分なりに日常に戻りたいという願望は出てきていた。結果的にその入院は自分を取り戻す大きなきっかけとなった。
そして、2か月が経ち、地元へ戻ることを決断した。直前の貰った外泊許可で実家に3日間帰った時、「やり直そう」とふと思った。何かをやり遂げてから地元に戻ろうという想いは強かったのだが、現実を見た。
そのまま残ってもまた同じことを繰り返すかもしれないということで地元へ戻った。今でもあのまま現地に残って生活していたらどうなっていたかなと思うこともある。でもそんな中で
リスクある息子の帰りを受け入れてくれた母には本当に感謝しかない。
地元に戻ってからは1か月何もせず休んだが、すぐに指導の現場に戻った。というのも、退院の時に当時の上司に挨拶をしに行ったのだが、「現場は続けた方がいい」との言葉を頂いたからだ。
そして、すぐに地元の社会人フットサルチームのテクニカルダイレクターとして現場に復帰した。
もちろん無謀な事でもあるし、一筋縄では行かなかった。戻ってからの病院探しも時間がかかり、睡眠障害も続き、病名も躁状態とうつ状態を交互の繰り返す「双極性障害」へと変わった。
住む環境も変わり、職場の環境も変わったりして、適応に苦しんだ。親へ八つ当たりすることも多かった。しかし、どんな時でも親とチームの方、関わっていただいた方は向き合ってくれた。
ただただ自分勝手に生きて、勝手に心を病み、勝手に戻ってきた僕を突き放すことはしないでくれた。
自分に素直に生きる事。
自分が感じた事、思った事をしっかりと伝える事。
ありのままでまずは生きること。
何かを演じて生きることはせずに、
“成田響純”として生きること。
この気付きは本当に大きい。ここに気が付いてからは、自分の中で失うものがないと気が付き、少しずつ与えられた仕事にトライしていくようになった。
高校のサッカー部のGKコーチになったり、子どもたちにフットサルを教える機会をいただいたり、少しずつ活動の場が増えていった。
活動の場が増えるきっかけも、戻ってからの出会う人とありのままで関わっていたら、自然と自分の事を理解していただき、何かを与えてくれるようになった。
地元に戻ってきてから特別な事はしていない。
言うならば人間として本来の生き方を実践してみたのみ。
僕はうつ病になって親にせっかく頂いた大切な命を放棄するところだった。ほぼ自分の意志ではなく身体の中にいた別の何かが、そうさせていたように思う。正確には分からないが、ある境を超えると自分ではコントロールしきれなくなる。
そうなってからでは遅い。
勇気なんかいらない。
まずは病院へ行くこと。
おそらく家族や仕事仲間に言うのは酷なことであり、それこそ勇気がいるので、いち早くタクシーに乗って病院に行くのがよいと思う。
結局何かを変えなければ変化は起きない。病気にかからなくとも、人生は自分次第で奈落へも落ちるし、頂上にも行ける。やはり大事なのは自分の意志。静かに寝る前にでも目を閉じて自分に問いかける、「自分は何をしたいか?」と。
そうしたら、明日には何かが変わっているかもしれない。
暗い部屋のベッドに体育座りをして何時間もただやり過ごしていた夜もあるが、黙っていても夜は明けて朝は来る。
次の日を少しでも頑張ろうと思える時が来たらきっとまた一歩を踏み出せるはず、そう言い聞かして
“今日を、今を生きている”。
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