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等身大の高畠 通敏 先生

高畠 通敏 先生というと「立教大学法学部の政治学者」「計量政治学による選挙予測の第一人者」「市民運動活動家」「政治思想家」等として 広く知られていますが、「教育者」でもありました。
しかし、「教育者」に “偉大な” という形容詞を付けることに いささか “面映おもはゆさ” があるのは、私だけでしょうか? およそ先生らしくない “生身” をさらけ出す危なっかしさもあったのです。しかし、だからこそ、その “弱み” をいとおしみつつ 日々 理想に向かって努力していくことの大切さを、身をもって私たちに教えてくれたのだと、今になって理解できるのです。

用例採集の虫

まず、小説『舟を編む』(光文社 2011年)に登場する松本朋佑に、私は高畠通敏先生を重ねて観てしまいます。松本は合コンに出席したりファーストフードで女子高生たちの会話を盗み聞きしたりしながら 若者言葉の用例を集めるのですが、その描写を読むたびに「高畠先生もやりかねなかった」と思うのです。
例えば、若者の心を捉え魅力的である様子を表す言葉は、時代によって「カッコいい」⇒「ナウい」⇒「イマい」⇒「イケてる」⇒「ヤバい」と変化しているわけですが、高畠先生は辞書編纂へんさんや『現代用語の基礎知識』を執筆していることもあって、貪欲どんよくに「ことば集め」をしていました。
なんでもない雑談をしている時に、突然「今の○○は、どういう意味で使ったのか?」と聞き返されます。あるいは「君たちは今、~という風に表現するのか…?」と確かめられたりします。途端に “口頭試問” のように、語義や背景、具体的な使用例などまで説明させられることも 少なくありません。そして数日後には、それらを講義の中で「諸君らはよく、~と言うけども…」と “活用” し、学生の反応を試したりもしてました(著作権侵害です!(笑))

先生をよく知るK女史は「ある意味で “ミーハー” だったよね。“新しもの好き” というか・・・・。もっと言えばさぁ、学生同士の噂話ゴシップを聞くのが大好きだった (笑)」と話しています。
彼女によれば「エール大学に留学していた頃(1965~67年)までは、ツンツンしていた」そうで、34歳頃までは不愛想でとりすましていたようですが、全共闘紛争の頃から “子どもっぽさ” が前面に出て来たみたいです。
その時期(1968年)に高畠先生は教授になり、学生たちと正面から向き合うようになります。先生自身も「自分より二世代も下の諸君に どういうふうに話せば理解してもらえるかは、避けて通れない課題だよ。だから辞書を一生懸命書いてる」と述懐してました。
法務省 司法試験委員(1976~78年)を引き受ける頃に書いた『政治学への道案内』(三一書房 1976年)は ベストセラーになるのですが、“今時の若者” が話す言葉を丹念に拾っていたことも、人気につながったのでしょう。

全共闘世代の卒業生と高畠先生(1985年6月@東紅楼)

負けず嫌いな面も

“子どもっぽさ” といえば、負けず嫌いな面も垣間見られました。先ほどの女史も「彼には 妙な劣等感コンプレックスがあってね、例えば『自分は熱烈な恋愛をしたことがない』と思ってるらしくて、雑談してても 恋愛の話になると話題を変えようとする。とにかく不得手な話題になると、すぐに自分の得意な話題に持っていくんだよね」と言います。
“ベストセラー作家” ということで、1980年代から高畠ゼミに女性が一気に増えたわけですが、ある年の正月、一人のOGから芦ヶ久保(埼玉県秩父市)の先生の仕事場に「マリリンモンロー」という洋ランシンビジウムの花束が届けられました。先生は その美しさに見惚みほれながらも「お返しは何が好いだろうか?」と悩んでいました。
正月ですので、ほろ酔い気分の卒業生が多く集まっていて、その中の一人が「それは先生、『シャネルの5番』しかありませんよ」と からかいました。恋愛に疎い高畠先生は「ええ~? なんでぇ~?」としばらく考えていましたが、「ああ、そうかぁ」と苦笑で誤魔化しました。マリリンモンローという洋ランを贈ったその女性が、お返しに香水をもらえたかどうかは謎です(笑)。

とにかく対話をさせる

学生同士で議論やディベートをさせることを、趣味のようにもしてました。
ある日の講義が終了後、百貨店の屋上ビアガーデンで高畠先生を囲んで飲んでいる時のことです。噴水の中にコインがたくさん投げ込まれているのを指さして、先生は「あのコインは誰に所有権があるんだ?」と、学生たちに聞きました。学生たちは口々に「コインを投げ込む人は、自ら進んで投げ込んでいるので、権利放棄ともいえる」とか、「百貨店が寄付してもらったことになる」「いや、百貨店に寄付などする気はない・・・」とか、他愛のない議論をして盛り上がります。それが すごく楽しかったです。
芦ヶ久保の仕事場には、夏休みや正月には学生や卒業生がやってくるので、梁山泊りょうざんぱくのような賑わいです (笑)。その中に我が家の三人の子(小学生以下)も混ざって、遊んだりお喋りしたりして過ごしてました。当然の如く ディベートも始まり、小2~3の長男も、負けずに張り合います。
3~4歳の次女も黙ってはいません。何しろ、物心ついた時からその雰囲気に慣れっこですから。現役の学生が遊びに来ていない時は、うちの子どもたちを先生は実の孫のように可愛がり、話し相手になってくれました。
だから、我が家に出入りする教師は何十人もいるし、やがて幼稚園・小学校で出会う教師も何十人もいるのに、次女が単に「センセー」と言う時は、高畠先生を指します。本人にとっては「ジイジ」と同義の固有名詞となっていたのです。

1993年正月@芦ヶ久保の先生の仕事場

基礎文献講読(基礎ゼミ)

高畠先生に限らず 1970年代の立教大学法学部は、当時の日本の高校教育を厳しく批判してました。〇X式の教育が一般化し、大学の受験競争が激化してくる中で、即答や暗記が得意な学生だけが “成績がい” として進学してくる・・・・ でも、大学教育をしようとしたら 思考力がない、論文を読みこなす力も 自分の考えを表現する能力もない、という現実に直面していたのです。大学が大衆化した時代でした。
「これまで諸君は定説を覚えればよいと思っていた。そういう意味では、学問の消費者/受益者でしかなかった。しかし、大学はそういう場ではない。これから諸君は生産者の立場になる・・・・ 自分が書く立場に廻るんだ。本を読む際も『なぜこの人は、これをこのように書いたのか? 俺だったら こうは書かないのに・・・』ということを考えながら読むんだ」と、入学オリエンテーションがありました。
ところが ある年、授業が進むうちに、一人の女子学生から 異議申し立てが出されました。「先生方の講義の目標は、やはり天下国家の政治に携わる予備軍としての専門家や職業人を育てることが念頭にあるのではないですか? 私たちの直面する課題は違うんです。私たちは専門家になる気もなければ、企業の幹部になって政治に関わる気もない。やがて結婚し、家庭に帰り、地域に帰る。そういう私たちに役立つ講義をしてください!」と。
それは、多くの男子学生にとっても本音です。立教大学法学部は、こうした根源的な問いを許す ”学び” となってました。

人の好いジイジ

日本が 1970年頃に直面していたのは、革新地方自治の運動の広がりで、そこに女性がたくさん参加し、彼女たちも新しい自分たちの政治に直面していたわけです。「勝手連」などの新しい政治参加の形も起こってきます。高畠先生は、学生たちの異議申し立てに触発されて、市民運動とアカデミックな政治学との懸け橋を作る決断をしました。
先生のミーハー趣味には ますます磨きがかかり、“女・子ども” の言うことにも真摯しんしに向き合う 「人のいジイジ」になります。学生をエリートや権力者に導くのではなく、成熟へと導く・・・・ “教える” のではなく “伴走し 励ます” という、今日では国際標準となっている教師の在り方を体現していました。
なので、いつまで経っても “同窓生”(決して法学部卒業生に限りません)が集まっては、ワイワイ ガヤガヤお喋りする “伝統” がのこっているのです。

左:1998年正月@丸山の山頂。右:2004年7月7日没。享年 70歳

高畠通敏先生の辞世メッセージ:< あなた達が私を思い出す時、私はいつでも あなた達のかたわらにいる。願わくは、時の浄化作用によって私の卑小な部分が忘れられ、いつも暖かい感情とともに、あなた達によって思いだされんことを。>・・・・ あれから 20年目の「七夕忌」です。合掌。
http://www.toshima.ne.jp/kyoiku/tzemi20.htm

高畠通敏没20年 : ブログあれこれ (blog.jp)

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